革命としてのFusion360
IT革命、なんてもうとっくの昔に死んだ言葉だろうか。革命という言葉には「物凄く急激な」というイメージがあって、その「急激」の度合いは視座の取り方によって変わってしまうから、たとえば10年とか20年で起こった変化のことを「革命」と感じるのは、その時代を生きた人間には難しいのかもしれない。圧政者の首が切り落とされて、解放された民衆が喜びの声を挙げながら街を練り歩くみたいな分かりやすい出来事もなかった。だけど、IT革命は本当に革命だったし、それは緩やかに今日も進行中だ。
IT革命によってある程度まで情報は解放された。僕はIT革命以前の世界を暮らしていた経験があるけれど、子供の頃の自分はなんて不自由だったのだろうと思う。京都の片田舎で育った僕にとって情報源は町の本屋とテレビと新聞だけだった。今思えばぞっとするとしか言えない。
今思えばぞっとするが、当時はそれが不自由だとは思っていなかった。知りたいことがあれば本屋へ行って本を買ってくればいいし、テレビには多種多様な番組があるし、新聞は間違いのない立派な情報源だと思っていた。
これから10年後、僕たちは今を振り返って、「物の形」について同じようなこと感じるのだと思う。
「物の形」に関して、なんて不自由だったのだろうと思う時代が絶対に来る。「物の形」に関する不自由さは、今のところ「仕方ない」という形で不自由の外側へ隠蔽されている。
たとえば、ワインが余ってどうやって蓋をしようか困ったことはないだろうか。コルクを元のように押し込もうとして上手くいかず、サランラップを被せてお茶を濁すような。21世紀初頭という、超絶な半導体素子の集積技術に裏打ちされたスマートフォンが誰ものポケットに入っていて、地球の裏側に気軽に超高解像度の写真を送れて、自分の居場所はGPSで取得可能で、次世代シーケンサーの登場で誰もが自分のゲノムを数万円で読めて、無謀だと言われながらも火星への移住計画が動き出し、量子情報通信が基礎実験レベルでは成功しているような時代に、僕たちはワインの蓋すら満足にできない。
そんな不自由は、考えてみればいくつでもあるはずだ。
ぴったりくる高さのテーブルは見つからない。電池蓋の爪が折れてテープで留めている。オーダーメイドの靴は高いしレディメイドの靴を履いて指先は変形している。洗濯バサミがあとちょっと大きかったらこれ挟めたのに。ここに椅子を置くとガタついてしまう。
そういう不自由は、今のところ鼻で笑って無視することになっている。なぜなら、一部のデザイナーや製造業に関わる人、ホビイストを除いたほとんどの人々にとって「形をどうこうする」というのは、昭和の初めの人が「ググる」なんて想像できなかったように、想像の範囲外だからだ。形あるもの、プロダクトは買ってくるもので、たとえ部品を付け替えるという行為があったとしても、部品は全て規格で造られたものだ。形あるものに関して現代人は「レディメイドあるいは規格品」という檻の中に押し込まれている。つまり頭の中が規格化されていて、それは大量生産大量消費の時代が半世紀以上も続いたのだから当然のことだ。
3Dプリンターが普及すると、そういうレディメイドの時代が終わるのではないかと言われている。言われているというか、言われてきて、だけど意外に3Dプリンターの普及が進まないことや、造形物のクオリティが「プラスチックのオモチャ」どまりであることから、一時期の熱気は薄れたかもしれない。
3Dプリンターの普及が思ったより遅い理由の一つは、3Dプリンターそのものではなく、「3Dデータをどうやって作るのか」という点にある。
現状で誰かが3Dプリンターで造形するデータを用意する方法は大きく3つ存在している。
1つは、3DCADなどのソフトを用いて自分で好きな形状のデータを作るという方向で、これがもっとも「自由」に近い。
2つ目は、誰がが作ってweb上などにアップしたデータをそのまま使う方法で、これは言うまでもなく自由からは遠い。人の作ったデータを改造するということも可能だが、それには1つ目の方法と同程度の3Dに関する知識とソフトが必要になる。
3つ目は、物を3Dスキャンしてデータ化する方法だが、SF的な「同じものの複製ができる」という簡便さからはまだ遠いし、スキャナーはそれほど万能でもない。そしてスキャンしたデータに改変を加える場合、これもダウンロードして来たデータを扱うのと同じで、結局は3Dの知識とソフトが必要になってくる。
つまり、誰でも簡単にアクセスできる3DCAD(あるいはそれに準ずる)ソフトがない限り、3Dプリンタが普及して、人々が自由に形状を作る時代は来ない。
ほんの2、3年前まで、誰もが無料か安価で使用可能な、それできちんとした機能の3DCADはなかった。
僕は3DCADとしては非常に安いと言われているRhinocerosというソフトを少しだけ教えていたことがあるけれど、それでも15万円くらいはするソフトなので「これは確かに面白そうだけど、15万円はちょっと」という人がとても多かった。15万円払うなら3Dプリントではなくて旅行とかダイビングとかもっと別のことをしようと思う人はいくらでもいる。
状況が変わったのは2015年の秋だ。
AutodeskがFusion360という3DCAD(の日本語版)を発表した。かなりの機能を実装していて、それがスタートアップの小さな会社だとか個人であれば無料で使用できる。なにかものすごいことが起こったと思った。無料だとか安価だという響きは怖いもので、最初はFusion360を信じていなくて、どこかダメなんじゃないかと恐る恐るだったのが、何十年もエンジニアをやってきて、3DCADを使ってきてという先輩方にも「恐ろしいソフト」というお墨付きをもらったりして、僕自身がFusion360を多用するようになった。
3Dプリンタを始めたいという人にはFusion360を勧めて、それからいつの間にか使い方も教えるようになって、ある時からこれは革命のはじまりなのではないかと感じるようになった。アイデアを形にする術がなくて、ずっと諦めていたものがFusion360で形になり、3Dプリントで実体になり、それを見て感動する人達がいて、彼らが口にする感想はどれもが「自由の獲得」に近いものだった。
3DCADは難しいのだろうと言う人が多いけれど、それは単なる偏見で、そもそもCADはComputer Aided(Assisted) Designのことだからコンピュータが助けてくれて簡単になるというのが本義だ。だからCADなしでは作れないしイメージすることも難しい形状がCADに助けてもらうことで作れるようになるわけで、それは紙にペンで形を描いたり彫刻したり粘土をこねるよりも遥かに簡単なことだ。
Fusion360を使う人の数は、どんどん増えていると思う。それはすなわち「形に関するある束縛からちょっと自由になった人」の数がどんどん増えているということで、クリティカルマスに到達するのはそれほど遠い未来ではないように思う。ネットが普及したお陰で多様なサービスが生まれたように、Fusion360(などの3Dソフト)の普及により全く新しいサービスと世界が立ち上がるだろう。そのとき、きっと僕たちはこう思うのだ「21世紀初頭って信じられないくらい不自由だったよね」と。