時間とは私であり時間ではないということ

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 無限に広がるニュートン的な宇宙と、十分な分子、原子ないしは素粒子の存在、あるいはエネルギーの存在を仮定する。
 この時、無限個の粒子が取りうる状態数は無限個存在し、つまりどんなに低い確率でしか起こり得ないことであっても、どこかで起こる。その帰結は、たとえばどこかに自分と同じ生活を送る自分と同じ人間が存在し、ただその自分の「今日」着ているTシャツの色のみ異なる、という状態の存在を示唆する(しかも無限人の)。
 こういう話を20年くらい前出していたメールマガジンに書いた。このSF地味た話は古典的なもので別に新しいアイデアではない。
 
 当時の僕は「ということは、この宇宙のどこかでは本当にスターウォーズみたいなことをしている人達もいるのかもしれないな」と思った程度だったが、今年になって別の可能性に思い至った。朝方眠りながら考えたことなので、夢という方が近いのかもしれない。
 それは、どこかでTシャツの色だけ異なる全く同じ僕が全く同じように生活をしているのであれば、同様にして「1秒前の自分とその周囲の環境」を「今」実現している粒子の配列がどこかには存在している筈だということだ。無論、10秒前の状態も、1時間前も、1月前も、1年前も、そして1年後も10年後も。つまり、1秒前の世界だとか、10年後の世界だとかが「今」どこか遠くに存在している。

 ここで、先程のニュートン的な無限空間をある時刻で輪切りにしたい。
 輪切りにしたこの断面には、先述のように今も10年前も1秒前も100年後も含まれている。それらは何かの順番に並んでいるわけではなく、ランダムにどこかに存在しているが、見渡すとまるで空間の中に「時間」が実現しているかのようだ。時間の流れなんて存在しなくても、全ての状態が取られている。
 すべての状態が在るのであれば、系の時間発展は必要ないのではないか、と一旦考えてみる。
 無限に広がるニュートン的な空間は、前提として時間発展していることを織り込んでいたが、時間軸を消してしまおう。先程の断面以外の全ての部分を消去する。時間が止まっているようなイメージだ。空間が無限に広がっており、そこにはありとあらゆる状態が網羅されていて、全てが凍てついているかのように時間は流れていない(存在していない)。

 このままでは、僕たちが日々体験しているような宇宙は実現しない。0.01秒後にそうなる筈の状態が、どこか遠くに存在しているとしても、それは「今、ここ」には関係がないし、時間がないなら(止まったままであれば)全ての事象は存在したとしても誰にも「認識」されない。そこには全てが在りながら、何も起こっていない。
 もしも、「状態(今、ここで私の観測する世界)」と「状態(0.01秒後の私の観測する世界)」の間に、なんらかの関連をもたせることができれば、「時間の流れ」に類するものを生むことができるかもしれない。今の仮定では空間は無限に広がっているので、「状態(今、ここ)」と「状態(その0.01秒後)」はほとんど無限に離れている可能性もある。日常的な感覚ではこれは絶望的だ。僕たちは、未だに近所の火星にすら行けないし、宇宙で一番速い光ですら太陽から地球まで8分も掛かっている。遠くと関係を持つことは難しい。
 ここで量子力学の出番だ。「量子もつれ」という状態を僕たちは知っている。「もつれ」は、糸が絡まったりした様子を示すもつれそのままだ。僕たちの物理学はとても小さな粒子が極めて非常識な振る舞いをすることを知っており、それらを量子力学で記述する。どれくらい小さな粒子かというと、たとえば電子くらいの大きさだ。電子は比較的イメージしやすいので、電子を使って話を続けると、僕たちは2つの電子をもつれた状態にすることができる。もつれていると、(誤解を招きそうだが単純なイメージとして)一方の電子に何かの作用を施すと、瞬時にもう一方の電子にも影響が出る。そして、このもつれた電子は、上手に引き離してやるとどれだけ遠くまで引き離してももつれたままになるので、見かけ上、どれだけ離れていたも瞬時に影響を伝えることができるように見える(離れると伝わりにくくなるとか、そういうことではなく、そもそも距離が式に入ってこない)。

 量子もつれの詳細は他を当たって頂くとして、ここでのポイントは、僕たちは距離を無視した物理学的な現象を知っているということだ。
 そして、このテキストでは「状態(今、ここ)」と「状態(0.001秒後)」が量子もつれで接続されていると妄想する。0,001秒後だけではなく、その前後もずっとだ(連続ではなく離散になるか?)。そうして、量子もつれで繋がった状態の一塊を僕たちは系の時間変化として認識している。
 つまり、「私」の認識する、時間発展を伴う世界が、「私」自身が立ち上がる。
 これを僕たちは「意識」と呼んでいる。
(ここでどうして急に「意識」とか「私」 とかが出てくるのか、もともとしてたのは物理的な状態の話ではないか、と言われると思うが、今はこのまま話を進めたい。物理的な状態としての世界は、あらゆる状態が既にバラバラで用意されていて、時間経過みたいなストーリーを構築するにはそれを認識する主体が必要になる 。これは暗に人間中心世界観の指示であるかのように見えるが、多分そうではない。ただ、僕達が僕達の認識しているような形の「この宇宙」について話をするのであれば、「この宇宙」を認識している主体に登場してもらうしかない。上手くすればこれは主体の立ち上がりに迫る話かもしれないし、ただの誤解かもしれないが。原理的には僕達の思考は主に視覚を中心とした五感のアナロジーで組み立てられており、「本当の」宇宙の姿というものが定義可能だとして、それは僕達の思考の枠組みで語れるものではない。それは既に量子力学が計算による予測が可能だが描像は描くことができないという形で示している。この辺りの話は今整理できないので機会を改めたい。)
 認識という言葉を使ったが、これは誤解と言い換えても良いかもしれない。神の視座から見た宇宙には時間もなく系の変化もない。前後も因果関係も存在しない。ただ無限の空間に無限個の状態が存在しており、それらが量子もつれで接続されているだけだ。

 ここで、1つの疑問が起こる。
 どうして都合よく「状態(今、ここ)」の次に「状態(0.001秒後)」が繋がるのかということだ。無限個ある状態のどれもが量子もつれになっているのであれば、「状態(今、ここの私の観測する世界)」の次に「状態(300年前の他人が歌を歌うときに観測する世界)」が繋がってしまって、アイデンティティが崩壊するようなことが起きる筈だ。「今の自分が見ている世界」が次の瞬間に「別の時刻の他人の見ている世界」に置き換わり、それが次の瞬間には「また別の時刻の別の人が見ている世界」に置き換わるということが無限に続くのだから、何もかもがグチャグチャでどうしようもない。という風に感じるかもしれない。
 それは多分正しい。ここでは便宜的に状態が次々に変わると表現しているが、時間は存在していないので前後関係はない。因果関係もない。すべてが同時にグチャッと起こっている。僕たちはその中から事後的(これも本当は後なんてないので便宜的な表現だ)にある筋の通った「私の意識、人生」なるものをピックアップしている(ような気がしている)。それはつまり「私」として選択されず「意識」には登らないので、ないことになっている全ての意識の全ての時刻(と僕たちが見做している状態指示の為の変数)における経験を”今、ここ”で全部一気に体験している。
 これは無論妄想だが、随分狂気じみていて、イメージしようとするとものすごい負荷が脳に掛かる。脳の奥の方で細かな血管が切れてしまうような気すらする。これは厄介なことを考え出してしまったなと思いながら、僕は再び深い方の眠りに落ちていった。