食べ物を支える死のこと

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 家の近所に小さな映画館と、併設された小さなカフェがある。小さな映画館では鑑賞中に小さなカフェの食べ物を食べることもできる。この映画館は逗子では唯一の映画館だ。かつてこの町がレジャー客で溢れかえっていた頃には、いくつかの映画館があったという話だが、今では全て跡形もない。寂しいような気もするし、レジャー客でごった返しているよりも、これくらい静かで、所々に文化的な施設があるくらいの方がいいのかもしれない。これはここ数年の僕を悩ませていることでもあるが、目の前の選択肢のどちらを取っても僕はそれを好きだろうという場面が増えた。どちらだって「良い」のだから、別に困ることではないけれど、判断が遅れるし、あちらをとっていたらどんな事が待っていたのだろうという空想も止まらない。可能性の海を見つめて、今ここから心が離れるのは多分良いことではない。
 今日、午前中に見た映画は「The Biggest Little Farm」というドキュメンタリーで、サンタモニカに住んでいた夫婦が犬を引き取ったのをきっかけとして自然農法の農場を作る話だ。LAから1時間程の場所に荒廃した広い土地を見つけ、そこに思っていたよりずっと規模の大きなファームを形成していく。これについては、またどこかにまとめて書こうと思っているが、実は僕はそんなに遠くない未来、似たようなことをしようと思っている。海から近い森の中にパーマカルチャーの村(町になればいいかもしれない)を作る。これから数年、なるべく多くの土地を訪ね、あるいは住み、それからどこでそういうことをするのか決めたい。今まで一度も定住したいと思ったことがないけれど、あと10年以内には定住したくなるような気がするし、新しい村(町)と生活共同体の在り方を提示したいとも思っている。それは多分、森林の中に埋もれたオーガニックな、しかしハイテックでモダンな村になるだろう。
 映画では、自然農法で、生物多様性を実現しての農業が7年がかりで一応の達成をみていた。たぶん素晴らしい成果だ。だけど、僕には痛みが目について仕方なかった。調和した自然というのは、ぼんやりイメージする分には聞こえがいいが、その実態は夥しい数の殺戮とそれに伴う痛みだ。調和は無数の死によって支えられている。ネズミが増えてきて果樹園の木の根が食べられて困っていると、猛禽類が増えてネズミを”食べてくれる”。人間にとってそれは利なので、映画では「今年は1年間でフクロウがネズミを何万匹食べてくれた」みたいなナレーションが入る。しかし、それは端的に数万匹のネズミの死と苦痛だ。
 彼らが農場を始める前、この土地は荒廃して地面は固く、ろくに生き物がいなかった。それを僕たちは死んだ大地だと表現するかもしれないが、そこには実際のところ本物の死はほとんどない。ただ無機的な静謐が存在するだけで、苦痛も悲しみもない。死は生命に溢れた大地にこそ存在する。
 子供の頃、テレビでウミガメの生態が取り上げられていた。砂浜に埋められた卵から赤ん坊が出てきて、砂の上を歩いて波打ち際を目指す。砂は白く、海と空は青く、新しい生命は希望に満ちている。が、空は青いだけではなかった。無数の白い点は獲物を待ち受けるカモメの大群だ。砂の上をヨタヨタ歩く無防備で小さなウミガメは、急降下するカモメたちによってドンドン、いとも無造作に食べられていく。この残酷な場面を見たとき、僕はそれまでなんとなく信じていた「自然は良くできていて素晴らしい」というのは嘘だと思った。自然の摂理なんてクソ喰らえだ。こんなに沢山の残酷さと苦痛が組み込まれたシステムのどこが良くできているだって? 何が自然の調和だ。何が美しいだ。どっからどうみても滅茶苦茶じゃないか。テレビで時々見かけた草食動物が肉食動物に襲われる場面のことも思い出した。「撮影なんてしてないで、助けてあげたら良いのに」と僕が言うと、大人たちはいつも「人間が手を出しちゃいけない、これは自然の摂理だから」と言ったが、ウミガメが次々を食べられるのを見ながら僕は自然の摂理なんてどうでもいいと思った。自然になんて従わない。僕は科学少年だったので、科学で自然を越えたいと思っていた。
 今は、自然界が内包する信じられない残忍さを認めることができる。小鳥が蛇に飲み込まれていくのを、まだ上手く表現できないが、容認することができる。もしかしたら只の諦めや慣れなのかもしれない。改めて、この映画によって、食べ物の生産にどれだけの死と苦痛が伴っているのかを思い知った。
 それから、この農場には違和感を感じた。たぶん、結局のところ農場は自然ではないからだ。農場は人間がコントロールしているし、彼らの目的は自給自足することではなく収穫したものをマーケットで販売して利益を得ることだ(農場を始めるに当たって彼らは投資も受けている)。その土地の外部に販売する大量の収穫が上がるという状態は「調和」ではないだろう。これは有機物の流れだけを見ても随分と不自然なことだ。たとえばキャベツができたとする。そのキャベツを畑の近所のニワトリが食べて、その糞がまた畑に肥料として撒かれたり、ニワトリが死んで土に帰ったりしたら有機物はその場で循環する。が、どこかよその町の人に売ってその人が家でロールキャベツか何かにして食べたら、芯は生ゴミとして焼却され、大便は下水道に流れていって、もうこの畑には戻って来ない(ものすごく長期的に考えると話は変わるけれど)。
 農業は現代の僕たちに必要なものだし、これを批判するつもりはない。それでも、ある規模で収穫を上げている自然農法を「調和」と呼ぶのはおかしな気がする。それは「コントロール」だと思う。実際にこの「調和」状態を放っておいたら、そのゾーニングは乱れていき、大量の果物が収穫できるという状態ではなくなるのではないだろうか。無論、この農場は、他の大規模な農業に比べたらとても良い。単独の作物を農薬と化学肥料で育てたり、狭い檻の中にたくさんの動物を押し込んで薬と飼料を食べさせるより、ずっとずっといい。だけど、この農場の食べ物ですら多くの犠牲の上に成り立っている。食物連鎖の頂点に立つ僕たち人類は地上に78億人以上。僕たちの生命は、一体どれだけ沢山の痛みに支えられているのだろう。

デビルズリングと玄妙なる眠り

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 デビルズリングと彼は呼んでいた、と思う。それは至ってシンプルなパーティーゲームで必要なのは二人の人間と二本の紐だけ。まず一本の紐を一人目の左手首に結びつける。それから、右手首にも。そうするとちょうど両腕が輪っかのように繋がる。続いてもう一人の人の両手首にも同じように紐を結びつけるのだが、このとき二人それぞれの腕が作る輪っかがお互いをくぐっているようにする。つまり、二人の人間はちょうど鎖の一部のように繋がれた形になる。一見すると、紐を切らない限り二人は離れることができないのだが、実は紐を切らなくても知恵の輪のように工夫してやれば二人は離れることができる。輪っかを外そうとして二人の人間があれこれ色々な体勢を試すのが、見ていても面白いという、たわいのないゲーム。

 随分昔、みんなで友達の別荘へ行って、寝る前にこのゲームをした。教えてくれたのはチェコから来ていた友達の彼氏で、彼は訳あってその友達ではなく僕の部屋に1週間泊まっていた。当時の僕の部屋は家賃29000円の6畳1間で、連日真夏の炎天下を京都観光してクタクタになり(夏の京都観光は地獄のような暑さだ)、さらに狭い部屋でお互い神経質なりに男二人なんとか眠り、楽しくはあるけれど疲労は蓄積していた。その1週間が終わっての”みんなで別荘”というのは、どことなく草臥れていたものの、実に解放的だった。別荘はとある山の中にあるのだが、とある複雑怪奇な理由によってお風呂は使えなかった。複雑怪奇な理由の一端を担うある施設が別荘からケモノ道のようなものを抜けた先にあり、僕たちはそこまでお風呂を借りに行ったのだけど、もちろん複雑怪奇な理由によってそれは無料だった。
 湯上りの気だるい体で、ケモノ道を抜けて全員が別荘へ戻り、一息ついた時にデビルズリングは始まった。
 ちょうどというかなんというか、僕たちはカップル2組と僕と僕と仲の良い女の子の6名だったので、それぞれのカップル(と僕と僕と仲の良い女の子)で順番にデビルズリングをやってみた。一見して、それは不可能に見えた。どんなヘンテコな体勢を試したところで、鎖みたいにつながった腕と腕を外すなんてできるわけがない。取れる体勢のレパートリーもそこまで沢山存在しているわけではないし、すぐに「これは何かの間違いではないか?」ということになった。外れる訳ないじゃないか、と。さらに肝心の言い出しっぺであるチェコ人が「僕も解法は忘れてしまったよ。でも確かこれであってたし、外す方法あったはず」という始末だったので、少し酔っぱらってもいたし、僕たちは「もういいや」とゲームを投げ打って寝てしまった。

 解法がやって来たのは朝方のことだ。僕は夢の中にいて、デビルズリングの模式図を描いていた。リアルな人間の腕や手首や紐ではなく、それらの要点だけを抽出した簡単な図だ。まったくバカみたいに、その簡略図を見るとトポロジー的に2つの輪っかは全然鎖みたいになんてなっていなかった。スカスカだった。どこからでもどのようにでも全く抵抗なく外せるようになっていた。
 僕はまだすっかり夢の中にいたのかもしれないし、半分は起きていて布団の中で目を閉じたまま考え事をしていたのかもしれない。いずれにしても意識ははっきりしていなくて、昨日これに気づかなかったなんてなんてバカだったんだと思い再び意識を失った。気付くと明るい朝が来ていて、僕たちはのそりのそりとそれぞれに起き上がって、布団の上に胡座をかいたりなんかして眠たそうに「おはよう」を交わした。真夏だったけれど、標高の高い山の中では、夏の朝はすっきりと爽快で、僕たちはリビングのテーブルに座り、誰かがコーヒーを淹れて、誰かがパンケーキを焼き始めた。まるでずっと前からこの別荘で暮らしていたかのように、その朝の食卓は自然に準備された。テーブルを拭いたりお皿を用意したり調理をしたり運んだり、誰もが自分のすることを完成間近のパズルのピースを嵌めるみたいな心地良さでこなした。誰も命じず、頼まず、命じられず、頼まれず。我々というチームのピークは今ここであり、あたかも我々はこの朝の食卓を作るために結成されたチームであるという感じが、大げさだけど、した。それは素敵な感覚だった。

 食事が一段落すると、僕はデビルズリングの解法が分かったと言った。朝の光の中で行うには、このゲームは随分と馬鹿げていてちっぽけなものに見えたし、朝食という実体の伴った肉体的満足感を与えてくれる行事の最中とあっては、もう本当にどうでもいいことみたいに思えた。けれどまあ、せっかく解法が分かったことでもあるし、いくらちっぽけに見えてもこの問題には昨晩全員で取り組んだのだから、朝食における1つの話題として取り上げてもいいだろう。
 僕は昨晩のように再び両手首を紐で結び、これもまた昨夜と同じく仲の良い女の子の両手首を結んだ紐とで鎖を構成した。そして夢の中で知った解法の通りにパズルを解いてみせた。それは至ってシンプルで地味な解法で、僕たちはアクロバティックな姿勢を取る必要がないどころか、立ち上がる必要すらなく、そして解法の実行に必要な時間は3秒だった。まったくどこにも見応えがなく、さらに見れば「なんだ、そんなことか。。。」というような、いまいち驚きに欠けるものだった。既に半分はどうでもいい扱いになっていた問題の、全く地味な解法は「ふーん」という尻すぼみな反応と共に消化された。

 そのようにして僕たちはデビルズリングというゲームを体験した。その小旅行におけるデビルズリングの重要性というものは極めて低いものの、こうして朝方の夢の中で問題の解法を得るというのが僕は好きだ。もしかしたら「眠ると問題が解決するみたいだ」と、はっきり意識したのはこのときが初めてだったかもしれない。ベンゼン環の構造が夢の中で浮かんだとか、歴史上のいくつかの科学的発見が睡眠中にもたらされたという話は、子供の頃もっともらしい嘘だと思っていた。なんというか夢の世界に秘められた真実があるみたいで、美しく魅力的な話だからだ。実際に僕たちの脳(たぶん)は睡眠の最中に玄妙なる何かを行なっているみたいだから、その点に置いて僕たちは嬉しく頼もしく思ったっていいだろう(もちろん起きている時に、その場で解法が閃けば一番いいのだけど)。

 ここまでの文章をいつ書いたのかは覚えていない。
 一つ前の記事に書いたように、僕の人生に日常的な長時間の電車移動というものが発生して、いつか書いたこのメモのような作文のことを思い出した。
 電車に揺られて文章を書いたり、プロダクトの設計をしたりしていると、50%くらいの確率で眠気に襲われる。「目を休めなきゃな」と言い訳のように心の中で呟いて目を閉じ、眠っているのだか起きているのだか良く分からない状態になること(たぶん)数分、考えていてことの解がふと浮かんで覚醒するということが何度かあった。もしかすると電車の中で眠っているような眠っていないような状態になるのは、朝方に夢の中で考え事をするのにとても似ているのかもしれない。
 「考える」という行為はとても曖昧だ。「じゃあ考えてみます」というとき、僕達は一体何を行うと宣言しているのだろうか。
 最も分かりやすいのは、シミュレーションだろう。いくつかの選択肢を吟味してみる。それでどの選択肢が最も優れているのかを判断する。だけど、これは閃きみたいな人間ぽい何かとは別ものの感じがする。どちらかというとコンピュータが得意とすることだ。閃きみたいなものがどこからやってくるのかは良く分からない。脳にある「A」と「B」を結びつけるのではなく、「A」と「い」を結びつけるような飛躍のことなのかもしれないけれど、飛躍の仕方は良く分からない。世の中には閃きを助けるマシンとして、ランダムに言葉を組み合わせたりする機器やメソッドが存在するが、それはランダムな結果に対してシミュレーションを行うだけのことで、あまり魅力的には思えない。
 多くの人が、ある素敵な閃きに対して「降ってきた」という表現をする。
 電車の中で半分眠ることが、もしもその「降ってくる」に加担するのであれば、それは朝方の夢よりも幾分コントロールし易くて面白いし、これから何か難しい問題について考える時は電車の中でウトウトしてみようと思う。

逗子から都内へ通勤すること

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 逗子から東京都内まで、実際に2ヶ月通勤してみた実情を書きたいと思う。
 僕自身、引っ越すに当たっていくつかの「逗子ー都内通勤」記事を参考にしたし、そういうウェブ上の情報がなければ引っ越しはしていないと思う。
 逗子駅では都内に向かう電車が4両増結される。だから、少し早めに駅へ行けばずっと座って都内まで行くことができる。そのような話をネットで読んで、それなら可能性があるかもしれないと思った、のが引っ越しのきっかけだ。
 帰りの電車も、そこまでは混み合わないので、大抵途中からは座れるということだった。
 座れるのであれば、PCで作業したりして、ある程度は時間を有効に使うことができる。
 そのような、やや良さそうな電車の便に押されてエイヤッと逗子に引っ越した。細かい問題は出てくるだろうけれど、その場その場で対応すればいいし、だいたい海辺の町に暮らすというのはずっと憧れていたことなのだから。

 まず朝の電車は基本的には座れる。
 はじめて朝に駅へ向かった時、想像以上にたくさんの人いるので「これはもしかしたら座れるなんて嘘なんじゃないか」と思った。実際、乗る予定の電車ピッタリの時間に駅へ行っては座れない。一本前の電車を見送って、長時間通勤に備えて並んでいる人達の列に加わり、5,6分次の電車を待つことになる。そうすればまずは増結される4両に座れる。また、怖くてあまり試さないけれど、増結される後部車両でなく、うんと前の方へ行けば、久里浜方面からやってきた車両の中にもポツポツと空いている席がある。
 試しに一度立ったまま通勤してみたら、試さなくても分かっていたことではあるけれど、東京に近づくにつれて満員度合いはどんどん強烈になり、新橋についたらもうヘトヘトだった。逗子で席を確保しておかないと悲惨な通勤になる。最悪の場合はグリーン車に乗った方がいい。
 とにかく少し早めに駅へ向かえば、まず間違いなく座ることができるので、朝は問題がない。ネットに書いてあった通りだ。

 帰りの電車は、これも僕が地下鉄に乗り換える新橋からの話になる。
 新橋からはたくさんの人が乗るけれど、東京駅からやってきた電車には人があまり乗っていなくて、新橋でギュウギュウになることはまずない。品川でなかなか人が増えて、西大井で少し減って、さらに武蔵小杉でも人が減って、そのあともどんどん人が減っていく。次に人が増えるのは横浜だが、そこまで沢山は乗ってこない。だから、帰りの電車はそんなに混んでいないと言っても良いだろう(たぶん電車の遅延があったときだけだと思うのだけど、たまにかなり混雑している)。

 ただし、車内が満員にはなっていないけれど席は全部埋まっているという状態が長い間続く。「武蔵小杉で降りそうな人の前に立つ」だとか、それらしいティップスがネットでは囁かれていたけれど、確実性に掛けるし、なんというかキョロキョロして席を奪い合うのはあまり僕の性には合わない。かといって、新橋から逗子まで1時間立ったままでは時間と体力の無駄だ。

 そこで、折りたたみ椅子を使うことにした。
 折りたたみ椅子は、アウトドア用品に軽くて小さなものが沢山ある。
 重視したのは座面が高いことだ。コンパクトな製品は基本的に座面が低い。ほとんどしゃがんでいるみたいになってしまうものもある。それでは膝にパソコンを載せて作業することができないので、あまり意味がない。座った時になるべく膝の上が水平になるようにしたい。
 そんな条件で探して、DODのウルトラライトハイシートチェア

 を買った。重さ約650グラムで、畳んだ時には直径10センチ、長さ35センチの円筒状になる。これならバックパックに入れて何の問題もない。展開すると座面の高さは46センチあるので、普通に電車の椅子に座るのよりちょっと低い程度だ。(このメーカーはずっと面白い製品を出し続けているけれど、価格帯が安くて、故にデザインも安っぽい。この椅子も3500円しかいない。高級ラインを出せばもっと売れるのではないかと思う。)
 新橋から乗車すると、続く品川と西大井で左のドアが開くが、その後はずっと右側のドアが開く。だから西大井までは立っていて、西大井を過ぎれば左ドア角に折り畳み椅子を展開して座ればいい。混み気味の場合は武蔵小杉まで一駅待てば大抵それなりのスペースが確保できる。
 
 そういう方法で結構快適な通勤をしている。
 移動中の作業は、どうしてか僕の場合は静かな環境よりも随分捗るので、蓋を開けてみれば通勤で時間を失うというより作業時間が増えたという感じだ。もちろん、その分家でゆっくりする時間が減ったわけだが、今の僕にはちょうどいい。

逗子で暮らし始めたこと

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 井の頭線下北沢駅のホームは道路に近いこじんまりとしたもので、まるで路面電車かのようにさっと乗車できる。急行に乗れば次の駅はもう渋谷で、その間たったの4、5分だから、感覚的には家にいて誰かに呼ばれれば10分から15分後には渋谷にいるという感じだ。同じように新宿へも小田急で10分程度でアクセスできる。渋谷と新宿はそれ自体が大きな街だが、交通の要でもあるのでそこからほとんど関東圏のどこへでも行くことができる。また、西へ目を遣れば井の頭線では吉祥寺まで、小田急では藤沢江ノ島エリアまで一本で行ける。交通の便という観点から言えば、下北沢は間違いなく便利な街だろう。

 街そのものはどうかというと、肩の力が抜けている。賑わう場所は賑わい、静かなところは静かというメリハリがついていて住みやすい。僕の住んでいたアパートは所謂閑静な住宅街にあり、小さな庭にはそれなりの大きさの木も植えられているので、庭へやって来る鳥を眺めながら本を読んだりもできる。人恋しくなれば、三分くらい歩いて飲食店や古着屋の立ち並ぶ賑やかな通りへ出ればいい。もちろんスーパーマーケットやドラッグストアも近所に複数ある。概ね快適な生活を送ることが可能だと言えるだろう。
 ただ、僕にはもう若すぎるような気がした。20代の頃に住んでいれば、古着屋で服を買い、レコード屋でレコードを買い、ライブハウスを渡り歩き、劇場を巡り、バーを飲み歩いたかもしれない。渋谷にある大箱のクラブなんかにも自転車で出かけただろう。けれど、そろそろ30代の終わりを迎える僕はすっかり古着なんて着なくなっているし、ライブにもクラブにもほとんど行かなくなった。昔は平気だったタバコの煙もすっかりダメになって、禁煙の場所にしか足を踏み入れなくなった。下北沢に引っ越してから4年間まったくギターを弾いていない。多分もう何も弾けないだろう。音楽の街だと言われるが、ライブハウスとスタジオがたくさんあるだけで、自由に音を出せる場所があるわけではない。京都みたいに鴨川もないし、広い公園もない。そして最近では路上ライブ禁止の看板が電柱に結ばれていて、僕のアパートは楽器禁止だ。
 行きつけの店みたいなものも、4年間住んで特に出来なかった。

 僕は結構頻繁に引っ越しをするので、考えてみると4年間も同じ場所に住んだのは本当に久しぶりだし飽きてしまって当然だ。
 そういう訳で、ずっと気になっていた逗子に引っ越した。
 海辺の小さな町には中型の本屋すらないが、大体どこへでも自転車で行ける町のサイズ感は心地いい。京都もちょっと頑張ればどこへでも自転車で行ける街だったが、もちろん逗子は京都よりずっと小さい。京都が大学の街だとすると、逗子は町全体が大きめの大学みたいな感じがする。学生時代というものが持っている掛け替えのない素敵なことの一つは、関係性のある人々がみんな近所に住んでいたことだと思う。さらに研究室へ入ると半分は大学に住んでいるみたいになる。だから、いつでも何かに誘う相手が「そのへんに」いた。ちょっと鍋でもしようとか、ちょっとバーベキューでもしようとか、ちょっと食堂に行こうとか、ちょっと散歩に行こうとか、さっと思い立ったときにさっと何かが始まり、昼も夜もそれらは思いがけない展開をみせた。
 ああいった時間が、きっと掛け替えのないものなのだろうとはうっすら分かっていたけれど、今となっては明白にそれらの貴重さがわかる。人々は散り散りになり、それぞれに忙しい仕事や家庭生活を持つ。「今から近所の河原でバーベキューで晩御飯にしよう」と、スーパーマーケットにみんなで出かけて野菜や肉を買い、誰かの部屋からバーベキューセットを持ち出してささやかな宴をはじめる、みたいなことは基本的には難しくなる。物事には予定合わせや予約といった面倒なことが必要になり、さらにその発生頻度は年に1度から、段々と数年に1度になってくる。

 先日、友達の家に集まって海苔巻きを作って食べた。参加したのはほとんど全員逗子市民で、別の町から来ている人もせいぜい隣の鎌倉からなので全員近所と言っても差し支えない。集合は逗子市民なら知らない人はいないスーパーマーケットOK逗子店。OKで買い物をして、魚は駅前の魚屋で買う。歩きながらやっぱり大学のようだなと思う。
 市役所へ行ったときも、まるで学務課のようだと思った。
 鴨川へ行くような感覚でビーチまで歩き、学食へ行くような感じで近所のデリへ行く。
 自分の研究室から大学の図書館へ行くときのように、アパートから市立図書館へ行く。
 どのくらいの期間、この町にいることになるのか分からないけれど、段々と知っている人が増えて、そうすればもっと大学のような感じが強くなるのだろうか。下北沢に住んでいたときは、全く書く気にならなかった町についての記録を、これから少しづつ書きたいと思う。

「逃げる」なんてない

 「逃げる」という言葉について、子供が書いた詩のようなものがfacebookのタイムラインに流れてきた。野生動物は逃げることで生き延びているのに、人間はどうして逃げてはいけないのか、という感じの内容だった。そうだ、人間だって逃げてもいいんだという大人達の賛同が、この小学生の書いた詩をインターネット上に拡散させた。「逃げたっていい」という趣旨には僕も概ね賛成だが、「逃げる」という言葉の取り扱いにはもう少し注意が必要だと思う。

 先ほどの詩には「野生動物は逃げる」という風に書かれていたわけだが、たぶん野生動物は「逃げない」。
 彼らはただ判断し行動しているだけだ。シマウマは別にライオンから逃げているわけではない。ただ死なない為に走っているだけだ。
 そして、それは人間にしたって同じことだ。
 たとえば野球とかサッカーみたいなスポーツを始めて、上手くなる気配もなく、試合に出ることもできないまま3ヶ月くらいでやめてしまったら、多分「逃げた」と言われる。上達してきちんと試合に出たり、あるいは何かの大会で優勝することを目指してチームメイトと一緒に汗を流して、ある一定期間「チャレンジ」しないと「逃げた」と言われる。
 自分のケーキ屋でも持てたらなと、製菓学校に入った人が、3ヶ月くらいで「意外につまんないな」と辞めてしまったら、多分それも「逃げた」ということになるだろうし、ちょっと苦手な人との会話を避けていたら、それも「逃げた」と言われるだろう。

 だけど、それらは見方の問題にすぎない。
 社会には、人はこのような状況下ではこのように行動すべきであるという暗黙の下らないルールが存在している。それらのどうでもいいのに重要だと思い込まれているルールは、暗黙どころか脳の中に刷り込まれていて真理や正しさの基準そのものだと取り違えられている。平たく言えば、ある人の価値観ということだが、誰もが自分の価値観で人の行動をジャッジしようとする。これはチャレンジであり、これは逃げである、という風に誰かの行動にレッテルを貼ろうとする。
 「逃げた」という評価は、つまり評価者の価値観に合わない行動だったというだけのことだ。わざわざそれを口にするのは相手に自分の思う通りの行動を取らせたいからだ。喧嘩を売る時の(映画やドラマにおける)常套句を見てみればいい。
 「逃げるのかよ、臆病者」
 喧嘩を売っている方は、相手を引き止めるというコントロールをしたいからそう言っているだけのことで、そんな術にハマることはない。

 全ての行動は、すべての方向は、逃げるでも立ち向かうでもなく、ただ端的に行動だ。すぐに何かをやめてしまうことを「逃げ」だというのであれば、無理にそれを続けることは「すっぱりやめることから逃げている」とだって言える。すべては下らない偏見に基づいた下らない評価とコントロールのための策略だし、そんなことは全く気にしないで僕たちはただ思う通りの方向へ進めばいい。

豆苗専用トレーを作りました。

 ときどき村上農園の豆苗を買って食べているのですが、トレーに入れて水をあげると再収穫が可能だということでテックショップの機材を使って専用のトレーを作成しました。

 トレーの素材はPETで最終的には真空成型機を使っています。

 

 まずは真空成型機に掛ける為の型を作成します。

 型の形状はFusion360で作りました。

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 今回は大量生産ではなく、ほんの数個できれば良いので型は3Dプリンターで造形しています。しかもPLAです。。

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 型を真空成型に掛けます。

 空気抜きの穴を作ったりするのが面倒だったので、型自体は壁面部分だけにして、底面部分はMDFの板で済ませました。薄いMDFだと空気が抜けます。

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 無事に成型できました。

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 真空成型機で作ったものは、最後に不要な部分を切り落とすのが手間です。手作業では上手く行かないのでレーザーカッターで切りました。

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切り出したものがこちらです。

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 これは買ってきたばかりの豆苗ですが、きれいに収まっています。

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シェア工房が開く移動生活時代の一端について

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 2010年代は、後に「人々が場所や物への固執を辞めて移動し始める準備期間」という風に評価されるのではないかと思う。LCCが世界中を飛び回り、AirBnBやシェアオフィスやuberカーシェアリングが現地で必要になるインフラを提供してくれる。そういう時代が始まった。まだ未熟だけど、それは始まっている。ノマドと呼ばれる人たちがああだこうだ言われながらも増加して、日本の大企業ですらテレワークということを言いはじめた。
 僕たちはわずか1万年くらい前に定住という生活様式をはじめた。以来農耕に束縛され、近代からの100年ではマイホームと通勤とサラリーとローンとサバイバルするための技能ではなく金銭を得るための細分化された職能というものに押し込められていたわけだが、そろそろ200万年の歴史を持つ移動生活者としての本能が目を覚まそうとしている。
 2020年代は移動の時代が本格的に始まる。

 僕は「テックショップ」というかなり大きなシェア工房で働いているのだけど、これまでもファブラボにいたり、いくつかのシェア工房が合同で行う催しなどにも参加させてもらってきた。さらにそれ以前からパーソナルファブリケーションやデジタルファブリケーションという概念には興味があって、自分なりに「工房が広くシェアされる」ということに対する漠然とした考えや意見は持っていた。
 それに「移動生活時代」というキーワードを加えてみると、次の10年間についてシェア工房の果たす役割は一味違って見える。

 念のためにシェア工房というのが一体何なのかを簡単に説明しておくと、3Dプリンターやレーザーカッターのようなデジタル工作機器、金槌やハサミみたいな昔ながらの道具を多かれ少なかれ取り揃えた会員制の工房のことで、プロだろうがアマチュアだろうか子供だろうが老人だろうが、誰であってもお互いに刺激を受けながら制作を行うことができる場所のことだ。制作という言葉は大袈裟かもしれない、画用紙にクレヨンで絵を描きたいのだけど家のテーブルは小さいしもう少し広いところで描きたいという程度のことで使う人だっている。
 今や世界中に1000以上のシェア工房が存在すると言われているけれど、そのはじまりを象徴的に、2002年にMITがはじめたファブラボだと言っても大きな間違いではないと思う。ファブラボというのはあるシェア工房の名称で、世界各地に存在している。大抵はその町の名前がお尻についていて、たとえば日本で最初のファブラボは鎌倉にあり、ファブラボ鎌倉という名前が付いている。台北にはファブラボ台北があるし、マドリッドにはファブラボマドリッドがある、というような感じだ。
 ファブラボは別に厳格に組織化されているわけではなく、ファブラボ憲章という理念に賛同する人達が同じ名前を名乗っている。そして元々は各ファブラボが同じ機材を持つことが推奨されていた。同じ機材を持っていれば、鎌倉で作成した椅子のデータをマドリッドに送って、マドリッドで全く同じものを作ることが可能だからだ。全く同じものもできるし、もちろん改変したものを作ることもできる(この辺りの話は2013年に「Making Living Sharing」という映画になった。https://youtu.be/G4Kv56W-tfE )。宇宙ステーション3Dプリンタを置いておき、必要な道具があれば地上からデータを送信して3Dプリントして使うという事例がしばらく前にニュースになっていたように、デジタルデータはどこへでも瞬時に送ることができるし、デジタル工作機器はそれらを物体に変えてくれる。

 だから、世界中をデジタルデータが飛び回り、各地でそれらがマテリアライズされるというのが、シェア工房とそのネットワークのイメージだった。
 それは別に間違いではない。
 だけど、現実にはデジタルデータよりも、もっと別のものが世界中を飛び回るようになったと思う。
 それは、人々だ。
 工房の運営者やユーザが思い思いにあちこちの工房に顔を出すということが世界中で起こっているし、もっと組織化された会議というか集会みたいなものもそこらじゅうで開催されている。
 インターネットという無数のコンピュータを接続するシステムが実際のところ画面の前にいる人間同士を接続しているのと同じように、シェア工房というインタフェースは人と人を接続している。

 人々が世界各地のシェア工房を飛び回るというイメージは、僕にとっては清々しい。
 飛び回る、つまり移動生活ということだけど、これまでハードウェアに関わる人間は、あるいは物体でなにかを作る人は移動生活を行うことが難しかった。なぜなら、物を作るのに必要な道具を持って移動することが難しいからだ。ノマドとか、旅をしながら仕事を!という人々は、大抵ラップトップが一台あればできる職種の人達ばかりだ。木工の家具職人で自分の道具一式を持ち歩いて世界を回っている人はほとんどいないと思う(かつてはノコギリやノミを持って渡り歩く人達もいたけれど)。ハードを作るには、それなりの設備が要る。ノコギリくらいは持って歩けるが、万能木工機やフライスや旋盤を背負って歩くわけには行かない。電子回路を作成する人には電子回路を作成するための、金属でバイクのフレームを作っている人にはそのための道具が必要になる。そういうものは今のところポータブルではなく、どこかにドシンと設置しておくしかない。
 置いておくしかないのであれば、行った先に置いてあればそれでいい。その役割は世界各地のシェア工房が担いはじめている。

 インターネットの世界で起こったことは現実世界でも起こるようになる、と時々まことしやかに言われるが、たぶんこれは本当のことだ。
 今のところ、移動生活が可能なのはインターネットに近いところで仕事をしている人達、つまりそのコンテンツ作成者やソフトウェア関連の人達ばかりだ。次の10年はリアルなマテリアルを扱う人達が移動生活を始める。ホテルや宿のお陰で快適な旅行ができるように、シェア工房のお陰でハードウェアに関わる人々の移動生活は可能になる。逆に言えば、何かを生み出す技能のある人間はシェア工房のある街を渡り歩くので、シェア工房のない街は「作る」ということに関する世界的な人々の往来から取り残されることになる。
 これまで自分の工房に半分は縛られていた沢山の製作者達が、軽やかに世界を旅するように暮らし、行く先々で何かを生み出すという時代が幕を開けようとしている。