「逃げる」なんてない

 「逃げる」という言葉について、子供が書いた詩のようなものがfacebookのタイムラインに流れてきた。野生動物は逃げることで生き延びているのに、人間はどうして逃げてはいけないのか、という感じの内容だった。そうだ、人間だって逃げてもいいんだという大人達の賛同が、この小学生の書いた詩をインターネット上に拡散させた。「逃げたっていい」という趣旨には僕も概ね賛成だが、「逃げる」という言葉の取り扱いにはもう少し注意が必要だと思う。

 先ほどの詩には「野生動物は逃げる」という風に書かれていたわけだが、たぶん野生動物は「逃げない」。
 彼らはただ判断し行動しているだけだ。シマウマは別にライオンから逃げているわけではない。ただ死なない為に走っているだけだ。
 そして、それは人間にしたって同じことだ。
 たとえば野球とかサッカーみたいなスポーツを始めて、上手くなる気配もなく、試合に出ることもできないまま3ヶ月くらいでやめてしまったら、多分「逃げた」と言われる。上達してきちんと試合に出たり、あるいは何かの大会で優勝することを目指してチームメイトと一緒に汗を流して、ある一定期間「チャレンジ」しないと「逃げた」と言われる。
 自分のケーキ屋でも持てたらなと、製菓学校に入った人が、3ヶ月くらいで「意外につまんないな」と辞めてしまったら、多分それも「逃げた」ということになるだろうし、ちょっと苦手な人との会話を避けていたら、それも「逃げた」と言われるだろう。

 だけど、それらは見方の問題にすぎない。
 社会には、人はこのような状況下ではこのように行動すべきであるという暗黙の下らないルールが存在している。それらのどうでもいいのに重要だと思い込まれているルールは、暗黙どころか脳の中に刷り込まれていて真理や正しさの基準そのものだと取り違えられている。平たく言えば、ある人の価値観ということだが、誰もが自分の価値観で人の行動をジャッジしようとする。これはチャレンジであり、これは逃げである、という風に誰かの行動にレッテルを貼ろうとする。
 「逃げた」という評価は、つまり評価者の価値観に合わない行動だったというだけのことだ。わざわざそれを口にするのは相手に自分の思う通りの行動を取らせたいからだ。喧嘩を売る時の(映画やドラマにおける)常套句を見てみればいい。
 「逃げるのかよ、臆病者」
 喧嘩を売っている方は、相手を引き止めるというコントロールをしたいからそう言っているだけのことで、そんな術にハマることはない。

 全ての行動は、すべての方向は、逃げるでも立ち向かうでもなく、ただ端的に行動だ。すぐに何かをやめてしまうことを「逃げ」だというのであれば、無理にそれを続けることは「すっぱりやめることから逃げている」とだって言える。すべては下らない偏見に基づいた下らない評価とコントロールのための策略だし、そんなことは全く気にしないで僕たちはただ思う通りの方向へ進めばいい。