食べ物を支える死のこと

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 家の近所に小さな映画館と、併設された小さなカフェがある。小さな映画館では鑑賞中に小さなカフェの食べ物を食べることもできる。この映画館は逗子では唯一の映画館だ。かつてこの町がレジャー客で溢れかえっていた頃には、いくつかの映画館があったという話だが、今では全て跡形もない。寂しいような気もするし、レジャー客でごった返しているよりも、これくらい静かで、所々に文化的な施設があるくらいの方がいいのかもしれない。これはここ数年の僕を悩ませていることでもあるが、目の前の選択肢のどちらを取っても僕はそれを好きだろうという場面が増えた。どちらだって「良い」のだから、別に困ることではないけれど、判断が遅れるし、あちらをとっていたらどんな事が待っていたのだろうという空想も止まらない。可能性の海を見つめて、今ここから心が離れるのは多分良いことではない。
 今日、午前中に見た映画は「The Biggest Little Farm」というドキュメンタリーで、サンタモニカに住んでいた夫婦が犬を引き取ったのをきっかけとして自然農法の農場を作る話だ。LAから1時間程の場所に荒廃した広い土地を見つけ、そこに思っていたよりずっと規模の大きなファームを形成していく。これについては、またどこかにまとめて書こうと思っているが、実は僕はそんなに遠くない未来、似たようなことをしようと思っている。海から近い森の中にパーマカルチャーの村(町になればいいかもしれない)を作る。これから数年、なるべく多くの土地を訪ね、あるいは住み、それからどこでそういうことをするのか決めたい。今まで一度も定住したいと思ったことがないけれど、あと10年以内には定住したくなるような気がするし、新しい村(町)と生活共同体の在り方を提示したいとも思っている。それは多分、森林の中に埋もれたオーガニックな、しかしハイテックでモダンな村になるだろう。
 映画では、自然農法で、生物多様性を実現しての農業が7年がかりで一応の達成をみていた。たぶん素晴らしい成果だ。だけど、僕には痛みが目について仕方なかった。調和した自然というのは、ぼんやりイメージする分には聞こえがいいが、その実態は夥しい数の殺戮とそれに伴う痛みだ。調和は無数の死によって支えられている。ネズミが増えてきて果樹園の木の根が食べられて困っていると、猛禽類が増えてネズミを”食べてくれる”。人間にとってそれは利なので、映画では「今年は1年間でフクロウがネズミを何万匹食べてくれた」みたいなナレーションが入る。しかし、それは端的に数万匹のネズミの死と苦痛だ。
 彼らが農場を始める前、この土地は荒廃して地面は固く、ろくに生き物がいなかった。それを僕たちは死んだ大地だと表現するかもしれないが、そこには実際のところ本物の死はほとんどない。ただ無機的な静謐が存在するだけで、苦痛も悲しみもない。死は生命に溢れた大地にこそ存在する。
 子供の頃、テレビでウミガメの生態が取り上げられていた。砂浜に埋められた卵から赤ん坊が出てきて、砂の上を歩いて波打ち際を目指す。砂は白く、海と空は青く、新しい生命は希望に満ちている。が、空は青いだけではなかった。無数の白い点は獲物を待ち受けるカモメの大群だ。砂の上をヨタヨタ歩く無防備で小さなウミガメは、急降下するカモメたちによってドンドン、いとも無造作に食べられていく。この残酷な場面を見たとき、僕はそれまでなんとなく信じていた「自然は良くできていて素晴らしい」というのは嘘だと思った。自然の摂理なんてクソ喰らえだ。こんなに沢山の残酷さと苦痛が組み込まれたシステムのどこが良くできているだって? 何が自然の調和だ。何が美しいだ。どっからどうみても滅茶苦茶じゃないか。テレビで時々見かけた草食動物が肉食動物に襲われる場面のことも思い出した。「撮影なんてしてないで、助けてあげたら良いのに」と僕が言うと、大人たちはいつも「人間が手を出しちゃいけない、これは自然の摂理だから」と言ったが、ウミガメが次々を食べられるのを見ながら僕は自然の摂理なんてどうでもいいと思った。自然になんて従わない。僕は科学少年だったので、科学で自然を越えたいと思っていた。
 今は、自然界が内包する信じられない残忍さを認めることができる。小鳥が蛇に飲み込まれていくのを、まだ上手く表現できないが、容認することができる。もしかしたら只の諦めや慣れなのかもしれない。改めて、この映画によって、食べ物の生産にどれだけの死と苦痛が伴っているのかを思い知った。
 それから、この農場には違和感を感じた。たぶん、結局のところ農場は自然ではないからだ。農場は人間がコントロールしているし、彼らの目的は自給自足することではなく収穫したものをマーケットで販売して利益を得ることだ(農場を始めるに当たって彼らは投資も受けている)。その土地の外部に販売する大量の収穫が上がるという状態は「調和」ではないだろう。これは有機物の流れだけを見ても随分と不自然なことだ。たとえばキャベツができたとする。そのキャベツを畑の近所のニワトリが食べて、その糞がまた畑に肥料として撒かれたり、ニワトリが死んで土に帰ったりしたら有機物はその場で循環する。が、どこかよその町の人に売ってその人が家でロールキャベツか何かにして食べたら、芯は生ゴミとして焼却され、大便は下水道に流れていって、もうこの畑には戻って来ない(ものすごく長期的に考えると話は変わるけれど)。
 農業は現代の僕たちに必要なものだし、これを批判するつもりはない。それでも、ある規模で収穫を上げている自然農法を「調和」と呼ぶのはおかしな気がする。それは「コントロール」だと思う。実際にこの「調和」状態を放っておいたら、そのゾーニングは乱れていき、大量の果物が収穫できるという状態ではなくなるのではないだろうか。無論、この農場は、他の大規模な農業に比べたらとても良い。単独の作物を農薬と化学肥料で育てたり、狭い檻の中にたくさんの動物を押し込んで薬と飼料を食べさせるより、ずっとずっといい。だけど、この農場の食べ物ですら多くの犠牲の上に成り立っている。食物連鎖の頂点に立つ僕たち人類は地上に78億人以上。僕たちの生命は、一体どれだけ沢山の痛みに支えられているのだろう。