僕たちに自由意思はあるのか、その2

 僕達は果たして自由意志を持ち得るのか、その続きです。

 前回は、機械論的な世界観でいけば、宇宙はずっと法則通りに動いているのだから、僕達だってその一部なわけだし、自分の自由な意思で生活しているなんてあり得ないんじゃないか、ということを書きました。

 今回は「きっちり決まった通り」のニュートン力学から次の段階へ行きたいと思う。

 相対論と量子力学は僕たちを救ってくれるだろうか? 僕達には物事を自由に選択する能力が備わっており、自分の意思によって生きているのだと宣言してくれるのだろうか。
 それとも、本当に僕達は時計の歯車が動くみたいに決まった通りの人生を始め、体験し、終えるのだろうか。

 ニュートン力学の支配する世界に相対性理論はいくつかの変更を加えた。時間も空間も昔の人が思っていたように固定された絶対的なものではない、ということだった。
 もちろん、それは大きなパラダイムシフトだった。もちろん。
 大々的に衝撃的で、物理学の枠を越えて相対論は社会に影響を与えた。社会学者や哲学者や文学者が相対論の話をした。

 だけど、まあそれは機械論的世界観の文脈で言えば、所詮は機械的に動くその動き方にいくらかの変更が加わったというだけの話だ。
 どちらにしても僕達の世界には確固たるルールがあって、厳密な法則に従って全ての物事は進行している。全ての物事、つまり僕達の人生を含む。ある日の服の皺の全てを含む。誰も見ていない下水の中の泡の全てを含む。ありとあらゆる瞬間のありとあらゆる全てが、決められた通りに動いていく。

 相対論では僕達の自由意思は担保できない。
 ところが、50年前くらいに量子力学が出てきたとき、「今度こそ」と人々は色めき立った。量子力学には「確率でしか記述できない曖昧な要素」が含まれていたからだ。「なんだ、やっぱり我々の人生は決まってなんていないんじゃないか!」って。

 基本的に量子力学は原子だとか電子だとかのとても小さな世界を扱う。この極小世界では僕達の常識的な感覚は通用しない。物がどこにあって、どっちへ向かってどう動いている、とかそういう当たり前なことがこの世界では通用しない。物がどこか決まったところに存在する、というような固定概念を捨てなくてはならない。代わりに、この辺にある確率が何パーセント、この辺にある確率が何パーセント、という風に曖昧な表現をする。
 誤解のないように追記しておくと、これは別に扱う対象が小さすぎてどこにあるかはっきり分からない、ということではないです。そういう小さくて見にくいとかではなく「原理的に」どこにあるということが決まっていない。一つ例を挙げるなら、昔の人が良く使った原子モデルで原子核の周りを電子が回っているというようなのは真っ赤な嘘です。直感的に分かりやすいモデルだから今でも多用されていると思うけれど。電子がどこにあってどういう風に動いているというのは分からないし、決まってもいない。それはただぼんやりと確率的にだけ表現できる謎の何かなのだ。

 話を急いで分かりにくいけれど、ポイントは僕達の宇宙には「きちんと決まっていないランダムっぽい要素もある」ということを量子力学が示した、ということです。

 これは一見救いのように見えて、実はそうでもない。
 だって、ただランダムなだけなものが僕達の意思決定であるなんて言えませんよね。意思ってそういうものじゃないですよね。ただのランダムというのは意思とは全然違う。
 せっかく「キチンとかっちりと決まったルール」から逃げることはできたけれど、かといって代わりに現れた「ランダムさ」も意思とは程遠い。

 では、「かっちりした法則」でも「ランダム」でもない、第三の何かというものは存在するのでしょうか。
 そもそも、どういう状態のことを僕達は「自由な意思」だと呼ぶことができるのでしょうか?

 それについて次回考えたいと思います。

 (その3へ続く)

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