N atoms.

 しばらく前に名古屋のMちゃんから、日記見てるけれど最近疲れてるの?、ということが書かれたメールを貰った。疲れているといえば疲れているのかもしれないし、そうでないといえばそうでないし、でも、まあ愚痴か細切れの意味が分からない話ばかり書いてるなと思うので、今日はそういう批判的な態度に一切関わりのないことでも書こうと思う。
 たまには研究とか科学の話でもしようと思います。

 それにフォーカスしているというわけじゃないけれど、この間、原子の希ガス量子もつれを作る話の論文を読んでいました。英語で「もつれ」のことを「エンタングルメント」というので、量子もつれのことを単にエンタングルメントと呼ぶことが多いです。普通に英文を読んでいてentanglementという単語が出てくると、たんにもつれた状態のことを指しているにすぎないのに、この業界の人ならびくりと反応してしまうと思う。

 エンタングルメントとは何なのか、なにがどうもつれているのか、というと、複数個の量子状態があるとき、どれかの状態測定が他の状態に影響を及ぼすという意味合いです。具体例を書いたほうがずっと分かり易いと思うので、この原子希ガスの論文を例にあげて、そのまま話を進めることにしたいと思います。

 ここではN個の原子がある空間に漂っている場合を考えます。原子というのは光子を吸収して、エネルギーの高い励起状態に遷移し、しばらくすると光子を放出して元の状態に戻る性質があります。
 このN個の原子の中に、光子を一つだけ放り込むと不思議なことが起こります。当然、どれか一つ、原子が光子を吸収して励起状態になるのですが、僕達は「どの」原子が励起状態になったのか、一つ一つの原子を調べないことには知ることができません。
 これが大事なことなのですが、知ることができないでは不正確です。知ることができないのではなくて、決まっていない。

 N個では話がしにくいので、原子の数を思い切って2個にしてしまいましょう。このとき、一つの原子に着目すれば、それが励起状態になっている確率は2分の1です。
 ただ、コイントスで表か裏かというような、2分の1とは話が違います。
 コイントスであれば、手をのけるまで表か裏かはわからないけれど、見えないからどっちか分からないだけで、見る前に表か裏かはもうかっちり決まっています。手の中でコインが表になろうか裏になろうか迷っている、というようなことはありません。
 でも、この原子の話はそういうことなのです。決まっているけれど見てないから分からないのではなくて、見るまで本当にどっちなのか決まっていません。励起した状態とそうでない状態が半々で重なった奇妙な状態になっています。そして、見たときに初めて表か裏かが決定する。

 だから、仮にこの2個の原子を互いにずっと遠くに離して、そして片一方を観測するとおかしなことが起こる。名前が要りますね。原子Aと原子B。どちらが励起状態にあるのかはまだ決まっていない。そしてAとBは遠くに離れている。そのような設定で、Aを観測してみました。するとAは励起状態にありました。ということはその瞬間、瞬時にBは励起していないことが分かる。
 これは気持ちの悪いことですよね。少し整理すると、Aを観測することで、遠くに離れたBの状態が「どっちか決まっていない、励起と励起してないの重ねあわせ状態」から「励起していない状態」に変化するからです。どんなに遠く離れていても、瞬時に。これはこの宇宙では何者も光速を越えては伝播しない、という相対性理論の根幹に抵触します。でも、この変なことは量子力学からの当然の帰結です。

 もともと、これはアインシュタインが、弟子のポドルスキー、ローゼンと共に「だから量子力学は変だ、間違っている」ということを言うために発表した思考実験なので、今でもエンタングルメントのことを彼ら3人の頭文字からEPR状態と呼ぶことがあります。
 結果的には「この変なこと」は本当に起こるし実験もたくさん成功している。距離に関係なく、Aの状態を観測すれば瞬時にBの状態が決まるので、これを量子テレポーテーションと呼びます。
 ただ、量子テレポーテーションを用いても情報は光速を超えて送ることができないので相対論には矛盾しません。

 だから、ここで、N個の原子がエンタングルメントしている、というのは「どれか一つを測定してそれが励起状態であれば、他のN−1個の原子は瞬時に励起していない状態に「なる」ということです。これは結構強烈にへんてこな現象ですが、こういうことはもう長い間当たり前のように扱われていて、宇宙はそういう風にできているのだと考えるのが今のところ妥当です。なので、当然その比較的新しい論文が主張したかったことはN個の原子のエンタングルメントではなく、もっと別のことです。彼らの主張では、Nが無限大(あるいは十分大きい)であれば、原子のガスに飛び込んできた光子と、励起した原子が放出する光子は同じ方向に飛んでいくというものでした。無限個って無茶なって感じですけれど、理論物理学というのはそういう世界です。今は原子を扱っているので無限個みたいに十分大きな数を用意することは実験的にも不可能ではありません。
 さらにこれを受けて、韓国のグループが「N個の励起した原子のガスが放出するN個の光子はNが無限大なら全部同じ方向に出てくる」という理論計算を発表しています。
 傍観している場合ではないけれど、いろいろ不思議なことも起こるものだなと思う。そして、これが不思議に見えることが本当はおかしくて、これがこの宇宙で起こっている普通のことなのだと思うと、どうしても奇妙な気分がしてしまいます。