FAB12,深セン: その3

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 8月10日。

 雷雨の音で目が覚めた。起床予定時刻より30分早い。まあいいかとそのまま起きて、窓から雨の町並みを眺めた。通りに人は少なく、まだ車もそれほど走っていない。雨は結構な強さだったが、あちこちをビニルで覆ってパラソルのような屋根を付けた電動バイクが走っている。
 今日も9時にシェラトンへ行く予定だ。雨具を持っていなかったので、フロントで傘を貸してもらえるかと聞くと、貸せる傘はないけれど売ってはいるというので買うことにした。たしか450円くらいで、出てきたのは地味な紫という僕の全く好まない色だったが、きちんとした折りたたみ傘だった。この日から毎日のように雨が降って、この傘には滞在中ずいぶんとお世話になった。
 ホテル最寄りの地下鉄入り口は、上りだけエスカレーターになっている。下りは階段しかない。雨が降るとエスカレーターが止まり、上りの人も階段を上がってくるので下り用の通路がいつもの半分の幅になってしまい、さらに傘を差したり畳んだりする為に人々が立ち止まるので結構な混雑となっていた。

 夕方までは昨日と同じような進行で、夕方からは3nod( http://www.3nod.com.cn/en/ )という会社に招待されて食事をした。
 バスが何台用意されたのかは分からない。僕達は何百人もいて、その全員がバスでホテルから3nodへ移動した。たまたま沢山目撃したのか、それともそういうものなのか、バスからは3度、交通事故を目撃した。高層ビル群を離れて、しばらくあまり高い建物がないエリアを走り、また高層ビル群が見えてきたなと思ったらそこが目的地だった。目的地周辺で、僕達のバスは迷い、誘導係りの女の子が電話と運転手になにやらまくし立てて、運転手も女の子になにやらまくし立て、同じ道をぐるりと二周してから3nodのビルに着いた。
 ビルは階段がイルミネーションというかディスプレーになった豪華というか吹っ切れたものだった。周囲にも高層ビルが建っているだけではなく、工事中の場所がたくさんあってどんどんとビルを建てているようだった。街はすでに街として機能しているけれど、その辺にどこかのビルに入れるのであろう大きなガラス窓や資材が置いてあったりして、街全体がまだ成長中で工事が日常に溶け込んでいるという雰囲気がした。

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 ピカピカと映像の表示されている階段を上がっていくと、インキュベーションセンターみたいな部屋があって、そこには3nodの社員であろう女の子が何人かいた。一番背の低い女の子が、拡声器を持って僕達に挨拶をする。どうやら、これから社内(展示場)ツアーのようなものがはじまるらしい。3nodはイノベーションとかインキュベーションとかスマートとか、そういう感じの会社でFAB12のスポンサーでもある。僕がこのツアーで受けた印象は「プラスチック」だった。オフィスのような場所には窓がほとんどなくて、そして形状と色彩はユニークを指向しているがセンスと素材が足を引っ張っていて全てがチグハグだった。僕は十数年前ボールチェアとかパントンチェアとか1900年代半ばのスペースエイジっぽいものが好きで、「全てのものはプラスチックでいい」と断言していたのだが、その頃を思い出した。
 
 その頃、一緒に家具を作って仲良くなった先輩というか、年上の友達が居て、彼は建築学科で修士課程にいた。そして「俺が建築で一番大事だと思っているのは質感だ」という話を何度か聞いた。今は彼の言っていたことが良く分かるが、当時の僕は「質感より形とか機能性が大事じゃないですか」と寝ぼけたことを言っていたと思う。十代とか二十歳くらいの若者をターゲットにした店で売られているのは品質は低いけれど色や形は工夫してあるというような商品で、昔は僕もそういうものでいいと思っていた。素材なんて二の次だと。でも今は素材の重要性が良くわかるし、そういうものはある程度の年齢にならないと分からないことなのかもしれないとも思う。一緒にショールームを見ていたあるデザイナーが「こんな程度の低いものを見せて一体なんのつもりだ。会社の評判落としたいのかな」というようなことを、実際にはもう少し手厳しい表現で言った。僕も正直なところ同感だった。

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 しかし、これは個人とは意味は違えど、ある意味合いでの若さというものかもしれない。燃費の良さを誇るどころか、まだサンフランシスコの坂も登れないと笑われていた頃の日本車のようなものかもしれない。深センには兎に角、勢いがあった。お金はあるからどんどんやるんだ、という気概があった。そのお金や気概を求めて世界中から人々がやってくる。僕は実情を知らないが、もうアメリカからはこういう製造業は失われていて、ハードをやろうと思ったらこっちに来るしかないというような話も聞いた。2,3年前にオバマ大統領が「メイカームーブメントでmade in Americaよ再び」みたいなことを一般教書演説で言っていたので、一旦made in Americaが失われそうになったのは本当のことなのだろう。今のアメリカのイメージは一応まだシリコンバレーと、メイカームーブメントだが、そういえば数年前まで、リーマン・ショックまで、アメリカといえばファイナンスとかMBAだった。これは何かに似ているな、と思ったらSONYだ。SONYはいつの間にか保険とかコンテンツの会社になっていて、でも最近のメイカームーブメントと歩調を合わせるようにしてまた面白い製品を作るようになってきたような気がする。

 例によって、ここでもイノベーションという言葉は目に付く。「イノベーションへのステップ」「ユニコーン!」みたいなことが壁に印刷されている。
 例によって、僕はイノベーションという言葉が好きではない。言葉自体は無機なるものだから、単語そのものを嫌うわけではないけれど、メイカームーブメントやユニークな企業や、”奇妙な人達”の出口にイノベーションというものを設定されると息が詰まりそうになる。「こーんなに自由な社風で、こーんなに変な人達がいて、見て見て、あの人なんて一輪車で出勤してますよね、ユニークですよね、それで、こういう毎日変なことがたくさん起きる環境からイノベーションが生まれるんです。変な人って大事なんです」みたいなことを言われるとイライラとする。
 その場その場で発揮され、味わわれ、その瞬間瞬間にほとばしっていたはずの、本来の語義でユニークな個々の活動というものが、イノベーションというただ定義上善なるものに回収されてしまうことを気持ち悪く思う。そしてイノベーションの6,7割は多分お金が儲かるという身も蓋もない話だ。イノベーションありきの多様性の容認は多様性ではない。
 と、また批判的なことを書いているが、3nodに集まってくるお金はイノベーションで儲けてリターンを得るために集まっているのであって、誰かがご機嫌に遊ぶためではないので状況は理解できる。メイカームーブメントの一部がこのような形で動いてもいいと思うし、世界の水不足を解決したいとか言ってイノベーションを目指すのもいいと思う。ただ、イノベーションに成功してユニコーンとなった人達の発言力は強い。そして巨大企業の力は凄まじい。だから「自由で変な人達は将来のイノベーションの為に大事なのだ、ほら異能ベーションとか」みたいな風潮が人々の間に広がるのではないかと思う。繰り返すようだが、それは今ここで発揮され体験されるものを先送りして金銭的価値にカウントしなおすという恐ろしさを持っている。これはとても資本主義的で会社社会的で、全くもって新しい世界なんかではなく、20世紀の延長にすぎない、というか産業革命の延長に過ぎない。そんな古臭いものに最先端の顔をされても困る。

 いつの間にか、人々の言葉使いが「ビジネス」みたいになってしまったと思う。堅苦しい話し方をするとかそういうことではなくて、ビジネスタームとその文脈が人々の日常生活を侵食したということだ。戦後日本は会社の為に存在するような国なので、人々の日常生活なんてものはもともとなかったのかもしれないが、英会話スクールに通ったりすることを「自分への投資」と表現するのが一般的になった頃、ビジネスによる生活の侵食が一段と進行したと思ってゾッとした。自由闊達に遊んでいる子供たちの勝手気ままな振る舞いが「将来のイノベーション」という言葉に巻き取られた瞬間、ビジネスによる生活の征服は完了する。全ての人々の、全ての行動と思考が、ビジネスの文脈の中に絡め取られる。
 「お受験」のときは、幼児や幼稚園児が変なお受験の塾に放り込まれて親がバカ高い金を払うという代償が明確だったことで、ビジネスによる生活の侵食は可視的かつ不快なものだった。だが今度は違う、イノベーションは自由なところから生まれるので、子供たちは一見するとのびのび育てられて特に制約も課されない。その実、全てがイノベーションを頂点としたピラミッドへと構造的に回収されてしまう。その恣意性は息苦しい。たぶん僕達は今立ち上がりつつある、新しい足枷としての常識を目撃している。かつてファションにおいて「モードを破壊することも、これもまたモードである」と構造主義の入れ知恵が1つの運動を囲い込むことに成功した。ファッションは思想的には服飾ではなく社会の全体であったが、実質的には服飾という極々限定的なシーンでしか作用を発揮しなかった。今度は違う、メイカームーブメントにしてもファブにしても「ほぼなんでも」作るし扱うし育てるし考えるのだ。そこには生活の全てが含まれる。今イノベーションという言葉は、生活の全てに対して「イノベーションを志向しない自由闊達なあらゆる営みも、これもまたイノベーションの種である」という形の囲い込みを成功させつつある。イノベーションというのは具現化したときほとんどが会社という姿なので、さっきのセンテンスは「会社を志向しない自由闊達なあらゆる営みも、これもまた会社の種である」と言い換えることができる。
 こうして、海岸を散歩しているときに彼女が見せた世界で一番美しい笑顔もイノベーション(会社)の内部に取り込まれて凍結される。つまり、個人のライフは消滅して世界を闊歩するのは実質的には実質を持たない法人だけになる。
 
 僕はテクノロジーが大好きだし、技術的な進化が世界を変えること自体はどちらかというと好きだ。だけど、イノベーションという言葉の取り扱いと流布の仕方には注意がもう少し払われてもいいと思う。考え過ぎだよ、と良く言われるが、考えというのは足りないことはあっても過ぎることはない。考え過ぎだというのは「それは間違っていると思うけれど、どこがどう間違っているのか指摘できないからそれを言うことはできない」という意味だ。
 ”イノベーション”は世界と生活の全てを覆い尽くす。それが悪いことか良いことかも分からない。ただ、何かに覆い尽くされて何に覆われているのか意識できない状態は嫌だと思う。20年後くらいに、ふとした瞬間頭をよぎる漠然とした生き辛さの根源が今立ち上がりつつあると僕は思う。止められないし、止めたいとは思っていない。ただ飲み込まれたくはないと思う。

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