孤独な現代の若者という幻想

 しばらく前に「土間の家(http://d.hatena.ne.jp/doma_house/)」で、座談会「北京と京都の大学生が見た町家」( http://d.hatena.ne.jp/doma_house/20120821/1345542150 )が行われました。

 北京と京都における、古い家の空き家問題や使用例についての話だったのですが、使用例としてはやはり「シェアハウス」というのが上位に挙がってきます。

 同じようにしばらく前、ツイッター上で社会学者、古市憲寿さんと@May_Romaさんの喧嘩のようなやりとりが話題になっていて、その中で@May_Romaさんは「シェアハウスって昔の長屋そのもので貧乏人がしょうがないから集まっているだけ、お金あったら誰が好んで他人と住むの」というようなことを言われていました。これはなんてことない発言ですが、僕は改めて「なるほどな」と思い、ちょっと今回は「シェアハウス」というものについて考えてみたいと思います。

 土間の家での座談会で、大学生の女の子がプレゼンの途中「寂しくない」のがシェアの利点だと言い、僕はものすごい違和感を感じました。
 寂しくない。寂しさを感じなくていい。
 まだ二十歳くらいの、見たところ友達もたくさん居そうな女の子が、どうしてそのようなことを言わなければならないのでしょうか。僕達はそんなにも孤独な時代を生きているのでしょうか。

 色々と考慮すべきことはありますが、彼女の話を聞いていた時に思ったのは「この子は、ただなんとなくこう言っているだけなんじゃないか」ということでした。多分、本当に孤独だとか寂しいとか思っているのではなくて、シェアということに関して何か発表する機会があって何かを言わなくてはならないので、一番簡単に思いつく「寂しくない」というのを持ってきたのではないかというのが僕の考えです。意地悪で申し訳ないけれど。

「地域、家族等の共同体は消費社会によって解体されてしまった。
 孤立した若者たちが新しい形の共同体を模索してシェアが増えてきた」

 いつの間にか、このような文脈が大手を振って流通するようになっていて、誰かが「シェア」ということを考える時、最初に浮かぶのは「共同体」、もっと端的に「さみしくない」ということになってしまっています。
 しかし、僕達は、仮に"現代の若者"という括りが有効であると仮定して、"現代の若者"は本当に孤独なのでしょうか?

 孤独な現代の若者というのは幻想ではないのか。
 というのが僕の答えです。

 先程のプレゼンテーションに関しては、発表者の方には本当に申し訳ないけれど、僕は彼女の意見を全然信用していません。自分の考えではなく、なんとなく世間の漂う無難な意見を拝借したまでだと思っています。
 世の中にはアンケートというものがあって、僕もこれまでの人生で何度も答えたことがあります。おいしかったかとかサービスには満足したかとか部屋はきれいだったかとか、ただ、あのアンケートというものはどれくらい真剣に集計して利用しているのか知りませんが、あそこに書いた僕の答えは全然僕の本心ではありません。別に意地悪で嘘を書いてやろうとかそういうことではなくて、それなりに素直に答えているつもりですが、それでもやっぱりその答えがとても自分の本心だとは思えないのです。
 だから、あんなものを参考に誰かが何かを考えているのだとしたら、僕はなんとも申し訳ないような、でもちょっと間の抜けた人だなと思うような、そんな気持ちになります。

 しかし、もしも自分が何かのアンケート結果を渡されて何かの企画を考えなくてはならないとしたら、そのどうにも信用の置けないアンケート結果を「真実」だとして用いる他ありません。この結果はどうせみんな適当に書いただろうからまあ気にしないでいいや、ということにはできないわけです。その結果、僕は「世間の30代の75パーセントはこう考えているのでこういう企画を作りました」とかもっともらしくプレゼンテーションをでっち上げるわけです。
 そして、そのプレゼンを聞いた人が、「へー、75パーセントの人がそう思っているんだ」とか思ってそれを誰かに言いふらしたりネットに書き込んだりして、そうしてどんどんとなんでもないアンケートの結果がオーソライズされていきます。つまりデマですね。

 だから、今回の「シェアは寂しくなくていい!」も、もしも何も疑うことなく真に受けてしまうと、僕はこのブログに「友達がたくさんいそうに見える大学生の女の子でも寂しさを感じていて、シェア生活の最大のメリットとして”寂しくない”というのをあげている。現代はやっぱり孤独の時代なのだ」とかなんとか書いてしまって。そして読んで下さる方の何人かは「大学生の女の子が寂しいというくらいに孤独な時代なのか、そうか」と思われて、誰かにその話をなさるのではないかと思うのです。
 たとえ発表者の女の子が適当に言っただけのことだったとしても、僕達はそれを真に受けたりするし、また真に受けたいと思っている。折角、その場で発表を聞いたのだから、それを間に受けて誰かに伝えたいと思う。だって実際に大学生の女の子が目の前でそう発表したのだからと自分の発言に説得力を持たせることができる。そういう説得力のある話を人にするのは気分がいい。だから嘘かもしれないと微かに思っていても、そんな疑いは無視して気分良く人に言いふらす。
 そして「寂しい現代の若者」というイメージがまた強化されます。

 プレゼンに難癖付けるだけで長くなってしまったので、続きは次回にでも書きます。
 「寂しい現代の若者」というのは、

 1,誰かが故意に流したイメージではないのか?
 2,インターネットの普及で人々が寂しさを口にしやすくなっただけではないか?
 3,自分の孤独が自分の問題ではなく社会一般の傾向なのだという言い訳に都合が良いのではないか?
 4,でももしかしたら本当に大量消費社会の反動で分断された個がコミュニティを再構築しはじめたのかもしれない。

 というような観点から書ければなと思っています。

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