セラピー的な動物園。

 先月から大学の美術工芸資料館で、造形工学科の先生達がデザインした製品、模型などが展示されていて、それを見に行ったときにどうしてか旭山動物園の話が出た。僕は、このブログにも何度か旭山動物園の悪口を書いているように、あまりこの動物園にはいい思いを持っていない。というか元々が動物園自体にいい思いを抱いていない。あんな風に遠いジャングルや草原から捕まえてきた動物達を狭い檻の中で見世物にする施設が、どうして普通に受け入れられているのか全く理解できない。

 旭山動物園は、動物の習性をうまく利用した動物園として有名になったわけだけど、僕はもうその「習性をうまく利用した」というのがとても嫌だった。見に来た人々の頭が水面から顔を覗かせたアザラシの頭に見えるように設計されたシロクマの水槽。シロクマは人の頭目掛けて水の中に飛び込んで、そしてあの力強い前足でいくら叩いてもけして壊せないような分厚いアクリルにぶつかる。人間の子供達はその様子に大喜びする。すごい迫力だとかなんとか。
 オランウータンは地上高くに張られたロープを、遠くに置かれたエサに釣られて長い距離渡り、それを見上げる人々はここでも流石サルだと大喜びする。

 こういうのって、良いとか悪いとかいう以前にいびつだなと思う。オランウータンの新しい住処を作るときの様子がテレビで流れていて、動物園の人が「オランウータンは手の力がものすごいので、触れるところにボルトやナットがあると指で回して開けてしまうかもしれないので心配です」というようなことを話していた。彼らだって外に出たいんだよ。高い木の上で生活する動物だから、高い所で移動できるようにして環境を再現しました、みたいなことを言うけれど、だからなんだという話だ。

 小沢健二の「セラピー的」という言葉を借りるなら、旭山動物園はセラピー的な動物園だ。動物園って動物を閉じ込めて見世物にしてなんか嫌だなあ、と思う人に「なるべく動物が暮らしている自然な状態を再現しました。だからほら、動物達の本来の習性行動が現れています。それを見るほうが人間だって、寝ているだけの動物を見るよりも嬉しいわけですから、動物の生活環境もよくなって人間もより楽しめる素敵な動物園なわけです」と囁いて丸め込もうという魂胆にみえる。動物園を作る人がそういう意地悪なことを考えているわけではないと思うけれど、背景にそういう思想があることは否めないんじゃないだろうか。

 動物達の生活環境が改善されても根本的な問題は解決されていない。ジャングルや草原から捕まえて運んできたり、狭い檻の中で繁殖させたり、そういうことをやめない限り問題は解決しない。
 でも、こういう新しい動物園ではこれくらいマシに動物は暮らしています。ということをアナウンスされると、新しい素敵な動物園の誕生ですとテレビで楽しそうに放送されると、人々の感じる痛みはいくぶん和らぐ。そしてまあいいかと問題の本質を忘れた気分になる。

 とても残念なことだけど、僕がこうしてこういうことを書いているのもセラピー的だ。ここでごちゃごちゃ書いても何にも解決しないのに、誰か読んでくれた人が何かを考えたりしてくれて、そういう考えが伝播して何か起こらないとも限らないとか、そういう慰めを自分でしていることを告白しないわけには行かない。

 セラピー的な行動とセラピー的な生き方。
 心の底では現実は変えられないと信じ込んで、一応は変える為の行動を中途半端に行って、それで心の痛みを紛らわして「仕方がないんだよ」と騙し騙し生きていく生き方。心の一番底にあきらめのある生き方。
 そういうのをアメリカではプログラムで大衆の心に植え付けた。日本がどうかは知らないけれど、そのアメリカの属国とまで言われているくらいなわけだから影響を受けていないとは考え難い、僕達は自分の心の中にある、人生に対する不安やあきらめの出所を、極々自然なものだと思うのではなく、もしかしたら人為的に植え付けられたものかもしれないと疑った方がいいかもしれない(歴史を辿らなくても保険会社がスポンサーについたテレビ番組に煽られた不安かもしれない)。少なくとも、それは不必要な不安やあきらめかもしれないと疑うことはとても重要だと思う。怖くて当たり前だとか、つらくて当たり前だとか、そんなのどこに根拠があるというのだろう。

『僕はこの世を楽園だと思っている。そして、人間がこの楽園に生まれてきた理由はただ一つ、ここで子供のように、思いきり遊ぶためだ』
 ヘンリー・ミラー