動物園はいらない

 この春、京都市梅小路公園に水族館がオープンしました!
 僕はまだ行ったことがないのですが、イルカやアザラシがかわいそうなのでさっさと潰れてしまえばいいのになと思っています。どうして海に住む知能の高い哺乳動物を内陸部のビルに監禁して見世物にしたいのか、僕には全然わかりません。
 他の水族館にしても同じ事で、さらに動物園だって、どうしてあんな狭いところにゾウやゴリラを閉じ込めてニコニコ子供に見せたりできるのか僕には全然わかりません。水族館も動物園もなくなってしまえばいいのになと思っています。
 ペットショップも同じで、近所のショッピングモールには犬猫専門のペットショップがあって、アクリルのショーケースに閉じ込められた子犬を眺めては客がキャッキャとはしゃぎ、これもアクリルの箱に入れた子犬をテーブルに乗せて店員と客が取引をかわしているのだけど、狂気の沙汰ですね。年間何十万頭もの犬や猫がペットショップから廃棄されるわけですが、水族館、動物園と同様にペット業界も潰れしまえばいいのになと思います。

 僕は結構動物の好きな子供でした。
 犬、鳥、ネズミ、リスをはじめとして色々な生き物を飼っていました。ムツゴロウさんのテレビ番組がとても好きでした。後にムツゴロウさんはただの動物好きの変なおじさんではなくて作家なのだということを知って、彼の著作のほとんどを読みました。
 動物園なんてなくなってしまえばいいのに、とは書きましたが、子供の頃は動物園に行くのが嬉しかった。だから動物園の楽しさだって本当は分かります。たぶん動物園で働く人達はみんな動物が好きな人達だと思うし、漠然と複雑な気分は持たれているのではないかと思います。動物が好きであればペットを飼いたくなるのも当然のことですし、実際僕の実家にも犬がいて、ペットショップなんてなくなってしまえ、と言いつつもやはり複雑な気持ちを持つことは確かです。
 僕達はどのような距離で彼らに接すれば良いのでしょうか。

 ここまで書いてふと思い出したのですが、僕は同じようなことを以前にも何度かこのブログに書いていました。。。
 たとえば、旭山動物園の悪口を少なくとも2回は書いています。2009年の記事「セラピー的な動物園 http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/70666fce7a517d7d2a00c670f0694640 」に、

 『 旭山動物園は、動物の習性をうまく利用した動物園として有名になったわけだけど、僕はもうその「習性をうまく利用した」というのがとても嫌だった。見に来た人々の頭が水面から顔を覗かせたアザラシの頭に見えるように設計されたシロクマの水槽。シロクマは人の頭目掛けて水の中に飛び込んで、そしてあの力強い前足でいくら叩いてもけして壊せないような分厚いアクリルにぶつかる。人間の子供達はその様子に大喜びする。すごい迫力だとかなんとか。
 オランウータンは地上高くに張られたロープを、遠くに置かれたエサに釣られて長い距離渡り、それを見上げる人々はここでも流石サルだと大喜びする。

 こういうのって、良いとか悪いとかいう以前にいびつだなと思う。オランウータンの新しい住処を作るときの様子がテレビで流れていて、動物園の人が「オランウータンは手の力がものすごいので、触れるところにボルトやナットがあると指で回して開けてしまうかもしれないので心配です」というようなことを話していた。彼らだって外に出たいんだよ。高い木の上で生活する動物だから、高い所で移動できるようにして環境を再現しました、みたいなことを言うけれど、だからなんだという話だ。

 小沢健二の「セラピー的」という言葉を借りるなら、旭山動物園はセラピー的な動物園だ。動物園って動物を閉じ込めて見世物にしてなんか嫌だなあ、と思う人に「なるべく動物が暮らしている自然な状態を再現しました。だからほら、動物達の本来の習性行動が現れています。それを見るほうが人間だって、寝ているだけの動物を見るよりも嬉しいわけですから、動物の生活環境もよくなって人間もより楽しめる素敵な動物園なわけです」と囁いて丸め込もうという魂胆にみえる。動物園を作る人がそういう意地悪なことを考えているわけではないと思うけれど、背景にそういう思想があることは否めないんじゃないだろうか。

 動物達の生活環境が改善されても根本的な問題は解決されていない。ジャングルや草原から捕まえて運んできたり、狭い檻の中で繁殖させたり、そういうことをやめない限り問題は解決しない。
 でも、こういう新しい動物園ではこれくらいマシに動物は暮らしています。ということをアナウンスされると、新しい素敵な動物園の誕生ですとテレビで楽しそうに放送されると、人々の感じる痛みはいくぶん和らぐ。そしてまあいいかと問題の本質を忘れた気分になる。

 とても残念なことだけど、僕がこうしてこういうことを書いているのもセラピー的だ。ここでごちゃごちゃ書いても何にも解決しないのに、誰か読んでくれた人が何かを考えたりしてくれて、そういう考えが伝播して何か起こらないとも限らないとか、そういう慰めを自分でしていることを告白しないわけには行かない。

 セラピー的な行動とセラピー的な生き方。
 心の底では現実は変えられないと信じ込んで、一応は変える為の行動を中途半端に行って、それで心の痛みを紛らわして「仕方がないんだよ」と騙し騙し生きていく生き方。心の一番底にあきらめのある生き方。』(引用終わり)

 というようなことを。
 自分が同じ事を昔にも書いたと気付くまで、僕は「動物が可哀想だと言いながら動物園廃止運動を行わない自分はコストやリスクを考えてそのようにしているのだけど、もしかしたらこういうのこそ実は頭が狂っているということなのではないだろうか、僕はもしかしたら狂っているのかもしれない」という感じで書き進めるつもりでした。つまり、以前「セラピー的」と表現したのを狂気で置換しただけですね。

 「セラピー的」というのがどういう意味かというと、これも自分のブログ(「セラピー的な社会」 http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/9d7b6535de2d6f091d772663022d9d36 )からの引用になりますが、

 『 タイトルにもある「セラピー的な社会」というのは的確な言葉だ。
 ある人が社会生活に疲れてセラピーに行くと、セラピストはその人の内面的な問題をどうにかしようとする。本当は環境の方を変えなくちゃ本質的な解決にはならない。「周囲を変えることはできないから自分の考え方を変えましょう」ということを仄めかして丸め込む。嫌な暗い気分になったというのは「何かがおかしい」というシグナルなのに、それを無かったことにする。

 人々が本質を考えないように、本質には関係がないのに関係があるように見せかけた出口の無い問題を与えて、その中でエネルギーを使わせる。本当はとても具体的な目の前にある問題なのに「大昔からの難しい宗教問題」とか「脳科学」とか「遺伝子に組み込まれた人間の性質」とか、なんかぼんやりとして解決のできないように見える問題に摩り替えて、現実の世界を変えようなんて気にさせないようにする。』

 という感じのことです。
 小沢健二はこれらの考え方を母親である心理学者の小沢牧子から学んだのだと思いますが、彼女の著書「「心の専門家」はいらない」には詳しいことが書かれています。
 僕達は物事の本質に目を向けるのが辛いので、ついついセラピー的になりがちですし、人々をコントロールしたいと思う広告会社や政治家は、

 『社会の問題について人々が考え始めたら、こっそりとある枠組みを与えて、その中でだけ自由に活発に議論させて、本質には目が行かないように操作する』(小沢健二「企業的な社会、セラピー的な社会」)

 という方法でいとも簡単に人々を騙すことができます。みんな騙されたいわけですから。放射性物質さえ「意外に大丈夫らしいよー」とあっさり信じる大衆に、深刻な環境問題も「エコって書いてある商品買っとけばそれで大丈夫、どのエコな冷蔵庫にしようかな!」と考えさせるのはとても簡単なことです。僕達は面倒なことは考えずに広告の振りまくエコでクリーンなイメージに縋りたいわけですからね。
 もしも世界がほんとのほんとに素敵だったらなあ。


「心の専門家」はいらない (新書y)
リエーター情報なし
洋泉社

動物園にできること (文春文庫)
リエーター情報なし
文藝春秋