裸で眠ることが被服の分断した身体を統合することについて

 もうずいぶんと寒くなってきましたが、僕は眠るとき、あいかわらず素っ裸です。
 子供の時はパンツもはいてパジャマも着て寝ていましたが、大人になってから裸度が増していき、いつの間にか素っ裸で眠るようになっていました。ときどき服やパンツを履いたまま寝てしまうことがあっても、夜中に目が覚めて脱いだり、無意識にいつの間にか脱いだりしています。

 裸で寝る場合と、何かを身に付けて寝る場合では「身体認識」が全然違うような気がします。
 哲学者、鷲田清一さんは「ちぐはぐな身体」という本の中で、服が肌に触れる感覚は我々の身体がどこまでなのかを教えてくれる、というようなことを書いていらっしゃったと思いますが。それと同じことが肌に触れる布団の感覚でも起こります。

 鷲田さんの言うように、確かに服は僕達の肌に当たり、それは「ここに私の肌がある」ということを示してくれます。でも、服というのは断続的なものです。僕達はシャツとかズボンとか靴下とかパンツとかブラジャーとか、色々な異なったものを体の各部分にまといます。それらは構造的に別々であるだけでなく、素材としても体を締め付ける強さも別のものなので、結果的に「足に当たるズボンの感覚」と「背中に当たるTシャツの感覚」などは全く異なったものとなっています。
 この「感覚の不連続」は、そのまま身体認識の不連続です。
 つまり、服を着るという行為は、「身体をパーツごとに切り離す」という行為でもあるわけです。僕達は体を「Tシャツに覆われる部分」だとか「パンツに覆われる部分」だとかに分断して認識しています。

 だからどうだ、というわけではありませんが、とにかく僕達は被服の着用という文化によって、本来一体である身体をバラバラな部分の集合として認識するようになりました。それ以前に言語が、つまり「腕」とか「お腹」とか「指」とか、そういった名前が身体を分断したかもしれませんが、その時分断されたのは概念としての身体です。服はそれをさらに感覚レベルで切り離しました。
 被服は大まかに外部環境と身体の境界を示したあと、さらに身体の中にもいくつか境界線を引いたのです。

 素っ裸で眠ると、この分断された身体が再び一つに統合されます。なぜなら布団は全身を同じ素材で切れ目なくすっかりと覆うからです。僕達は素っ裸で布団に包まれたとき、自分というのは一つの身体なのだ、とはっきり認識することができます。
 この時、全身を「一体」であると感じるにはパンツの一枚すら邪魔になります。パンツをはいていると、そこだけ不連続な感覚を持つので、身体はパンツから上、パンツのところ、パンツから下の3つの部分に分割されてしまいます。

 長々と書いていますが、だからどう、というのはないんです。
 でも、眠るときは素っ裸が一番快適だとは思います。

ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)
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