宗田理、映画とシナリオ、映像と文章
そうか、そういうことだったのか。
彼は映画監督になりたかったのか。
「私は、終戦後間もなくアメリカ映画を見たときのことを思い出した。当時田舎にいた私は、その映画を一本観ただけで映画の素晴らしさに感動し、将来は映画監督になりたいと決心した。
私はためらうことなく、日大芸術学科に入学した。私の夢はいろいろな事情で実現しなかったが、いまこの映画が、あのときと同質の感動をあたえてくれたことで、私の心は満たされている。」
(宗田理、映画「ぼくらの七日間戦争」パンフレットより)
小学生の時、”ぼくらの七日間戦争”をビデオで何度も何度も観た。台詞を全部覚えてしまうくらいに見た。当時、僕は探偵小説に影響されて少年探偵団を作っていたのだけど、その友達も台詞を覚えるくらい何度もこの映画を見ていたので、僕たちはいつでもこの映画のシーンを再現することができた。
この映画の原作が小説で、それがシリーズだということもすぐに知ったけれど、僕は映画のイメージを壊したくなかったのでしばらくは原作を読まなかった。
だんだんと我慢しきれなくなってきて、まずは”ぼくらの七日間戦争”そのものを読まずにその続編(ぼくらの大冒険だったかな?)を読んでみた。
おもしろかった。
おもしろかったし、映画のイメージを大事にしたいのと同じくらい小説の中のイメージも膨らんだので、そこで堰が切れて僕は”ぼくらシリーズ”を読み始めた。
いつ頃まで”ぼくら”を読んでいたのか、良くは覚えていない。多分、”ぼくら”が海外遠征をするようになった頃、話が陳腐に思えてきて新刊を待つのをやめた。
高校生のとき、友達に「ぼくらシリーズが好きだった」と言うと、彼は「あー、あれ、なんか友達が、あんなの小説じゃないって馬鹿にしてた」と返答した。
小説じゃないってどういうことだろうと思ったけれど、面倒だったし、なんか自分が小説のことを全然分かっていないのかもしれないし無知をさらけ出すかもしれないと思って言わなかった。今なら、「えっ、あれ小説だけど。小説じゃないってどういうこと、その人って日本語読めるよね?」とか返せるけれど、当時はまだ小説や文学といったものについて自分は何も知らないと思っていたし、そういったものが格好を付ける道具の一つでもあったので下手なことは言えなかった。馬鹿みたいだけど「もしかしたらダサいかもしれないこと」は口にできなかった。
先日、本屋でたまたま”ぼくらの七日間戦争”が目についたので、十数年ぶりに開いてみた。
なるほどな。
小説じゃない、というのはもしかしたらこういう意味だったのかもしれない。
書き方が、シナリオや脚本に似ていた。描写がシンプルすぎるところがあった。
僕は今、小説で複数の人間が集まって話をしているところをどう書いたら一番うまく行くか考えているところだから、ちょうどそういうところに目が行くのだけど、この小説では登場人物の多い場面で実にあっさりと
「なんとか」
とAが言った。
「なんとかかんとか」
とBが言った。
「なんとかだ」
とCが言った。
「なんとかは?」
とDは言った。
みたいに書かれていた。
だから小説じゃないわけではないけれど、たしかにこれは脚本に似ているとも言える。
一昨日何か映画でも借りようとTSUTAYAに行くと、やっぱり七日間戦争が目について、ついでにこれも借りた。
ちなみに本命として「ゾンビ・ドッグ」という映画を借りたら、全然ゾンビに関係なくて、C級すぎて途中で見るのをやめました。
冴えないアル中のシナリオライターが原稿を書けなくて狂気に堕ちていく話です。後からネットで調べてみると、最後の方では主人公の狂いっぷりが凄いらしく、一部の人たちには絶賛された映画らしいです。僕はそういう狂気にはあまり興味がないので途中で見るのをやめて良かったなと思う。
ただ、主人公が車でひいてしまい、死体を捨てた瞬間に不思議と生き返ってきた犬が、不思議にしゃべるのだけど、犬はソフトバンクのCMとかみたいに演技も何もしなくて、ただ普通のかわいい犬が座ってるだけで、主人公も最初は「しゃべっているっていうけれど口も動いてないし」とか突っ込むんだけど、そしたら犬は小さくてかわいい犬なのに野太いおじさんの声で「私はテレパシーで話している」とか言って、そのまま映画が進められるのが面白かった。台詞をかぶせているだけで、映ってるのは勝手にしてる普通の犬なんです。その様子だけでも見る価値はありました。
閑話休題。
七日間戦争のDVDには劇場公開時に販売されていたパンフレットが特典として収録されていました。
そこで冒頭に引用した文章を見つけたわけです。
映画の勉強をしていた人だから、脚本っぽさが小説に出ていても不思議ではないなと、高校のときに友達に言われたことの謎がようやく解けたわけです。
「子供たちはトビラをあける。
このシーンは感動的だ。暗い工場内に差し込む日の光、入り口に立つ子供たちがシルエットになって浮かび上がる。
活字では絶対に描けない、映像の素晴らしさ。
これが映画なのだ。」
(同引用先より)
映画監督を志していた小説家が、映画化された自分の作品を見たときの感動が強く伝わってくる。
僕もこのシーンのことをはっきり覚えている。とても好きな場面だ。でも、工場のトビラを開くのは夜で射した光は日の光ではなかったはずw
たしかにこういうことは映像表現でしかできないし、文章では絶対にできない。それは最近"the big bang theory"というドラマを書き起こしてみて身に染みた。このコメディドラマのおもしろさを文章にすることはできない。
けれど、もちろん、小説のおもしろさを映像にすることも、また同じように、できない。
物事にはそれぞれの特徴があり、変換不可能な物事の特徴の集合である故にこの世界はこんなにも豊かだ。
近いうちにこの映画も見直してみようと思う。ガチガチの管理教育を行う中学校から脱走してガチガチの大人たちに一泡吹かせた中学生の物語を。
「菊池くん、次は何なの?」
「うーん、ねらうは。国会議事堂だ!」
彼は映画監督になりたかったのか。
「私は、終戦後間もなくアメリカ映画を見たときのことを思い出した。当時田舎にいた私は、その映画を一本観ただけで映画の素晴らしさに感動し、将来は映画監督になりたいと決心した。
私はためらうことなく、日大芸術学科に入学した。私の夢はいろいろな事情で実現しなかったが、いまこの映画が、あのときと同質の感動をあたえてくれたことで、私の心は満たされている。」
(宗田理、映画「ぼくらの七日間戦争」パンフレットより)
小学生の時、”ぼくらの七日間戦争”をビデオで何度も何度も観た。台詞を全部覚えてしまうくらいに見た。当時、僕は探偵小説に影響されて少年探偵団を作っていたのだけど、その友達も台詞を覚えるくらい何度もこの映画を見ていたので、僕たちはいつでもこの映画のシーンを再現することができた。
この映画の原作が小説で、それがシリーズだということもすぐに知ったけれど、僕は映画のイメージを壊したくなかったのでしばらくは原作を読まなかった。
だんだんと我慢しきれなくなってきて、まずは”ぼくらの七日間戦争”そのものを読まずにその続編(ぼくらの大冒険だったかな?)を読んでみた。
おもしろかった。
おもしろかったし、映画のイメージを大事にしたいのと同じくらい小説の中のイメージも膨らんだので、そこで堰が切れて僕は”ぼくらシリーズ”を読み始めた。
いつ頃まで”ぼくら”を読んでいたのか、良くは覚えていない。多分、”ぼくら”が海外遠征をするようになった頃、話が陳腐に思えてきて新刊を待つのをやめた。
高校生のとき、友達に「ぼくらシリーズが好きだった」と言うと、彼は「あー、あれ、なんか友達が、あんなの小説じゃないって馬鹿にしてた」と返答した。
小説じゃないってどういうことだろうと思ったけれど、面倒だったし、なんか自分が小説のことを全然分かっていないのかもしれないし無知をさらけ出すかもしれないと思って言わなかった。今なら、「えっ、あれ小説だけど。小説じゃないってどういうこと、その人って日本語読めるよね?」とか返せるけれど、当時はまだ小説や文学といったものについて自分は何も知らないと思っていたし、そういったものが格好を付ける道具の一つでもあったので下手なことは言えなかった。馬鹿みたいだけど「もしかしたらダサいかもしれないこと」は口にできなかった。
先日、本屋でたまたま”ぼくらの七日間戦争”が目についたので、十数年ぶりに開いてみた。
なるほどな。
小説じゃない、というのはもしかしたらこういう意味だったのかもしれない。
書き方が、シナリオや脚本に似ていた。描写がシンプルすぎるところがあった。
僕は今、小説で複数の人間が集まって話をしているところをどう書いたら一番うまく行くか考えているところだから、ちょうどそういうところに目が行くのだけど、この小説では登場人物の多い場面で実にあっさりと
「なんとか」
とAが言った。
「なんとかかんとか」
とBが言った。
「なんとかだ」
とCが言った。
「なんとかは?」
とDは言った。
みたいに書かれていた。
だから小説じゃないわけではないけれど、たしかにこれは脚本に似ているとも言える。
一昨日何か映画でも借りようとTSUTAYAに行くと、やっぱり七日間戦争が目について、ついでにこれも借りた。
ちなみに本命として「ゾンビ・ドッグ」という映画を借りたら、全然ゾンビに関係なくて、C級すぎて途中で見るのをやめました。
冴えないアル中のシナリオライターが原稿を書けなくて狂気に堕ちていく話です。後からネットで調べてみると、最後の方では主人公の狂いっぷりが凄いらしく、一部の人たちには絶賛された映画らしいです。僕はそういう狂気にはあまり興味がないので途中で見るのをやめて良かったなと思う。
ただ、主人公が車でひいてしまい、死体を捨てた瞬間に不思議と生き返ってきた犬が、不思議にしゃべるのだけど、犬はソフトバンクのCMとかみたいに演技も何もしなくて、ただ普通のかわいい犬が座ってるだけで、主人公も最初は「しゃべっているっていうけれど口も動いてないし」とか突っ込むんだけど、そしたら犬は小さくてかわいい犬なのに野太いおじさんの声で「私はテレパシーで話している」とか言って、そのまま映画が進められるのが面白かった。台詞をかぶせているだけで、映ってるのは勝手にしてる普通の犬なんです。その様子だけでも見る価値はありました。
閑話休題。
七日間戦争のDVDには劇場公開時に販売されていたパンフレットが特典として収録されていました。
そこで冒頭に引用した文章を見つけたわけです。
映画の勉強をしていた人だから、脚本っぽさが小説に出ていても不思議ではないなと、高校のときに友達に言われたことの謎がようやく解けたわけです。
「子供たちはトビラをあける。
このシーンは感動的だ。暗い工場内に差し込む日の光、入り口に立つ子供たちがシルエットになって浮かび上がる。
活字では絶対に描けない、映像の素晴らしさ。
これが映画なのだ。」
(同引用先より)
映画監督を志していた小説家が、映画化された自分の作品を見たときの感動が強く伝わってくる。
僕もこのシーンのことをはっきり覚えている。とても好きな場面だ。でも、工場のトビラを開くのは夜で射した光は日の光ではなかったはずw
たしかにこういうことは映像表現でしかできないし、文章では絶対にできない。それは最近"the big bang theory"というドラマを書き起こしてみて身に染みた。このコメディドラマのおもしろさを文章にすることはできない。
けれど、もちろん、小説のおもしろさを映像にすることも、また同じように、できない。
物事にはそれぞれの特徴があり、変換不可能な物事の特徴の集合である故にこの世界はこんなにも豊かだ。
近いうちにこの映画も見直してみようと思う。ガチガチの管理教育を行う中学校から脱走してガチガチの大人たちに一泡吹かせた中学生の物語を。
「菊池くん、次は何なの?」
「うーん、ねらうは。国会議事堂だ!」
ぼくらの七日間戦争 (角川文庫) | |
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