バランスダンサー。

 携帯電話のニュースで、「ケンタッキーNO、講義するアメリカ人女性」みたいな記事が流れて、そういえば日本のケンタッキーでのトランス脂肪酸の扱いはどうなったのだろうな、と思いながらその辺りのことをウェブで久しぶりに読んだ。
 すると、ある掲示板で「マーガリンは有害だと聞きましたが、本当でしょうか?今あるマーガリンは捨てた方がいいのでしょうか?」というような書き込みと、それに対する大勢の人々が書いた返事が出てきた。

 人々の反応を見て、僕は少し変な気分になった。

「摂り過ぎは良くないようですが、気にしすぎてもあれですから、適度に使えばいいのではないですか」

 というのが大方の反応だったからだ。僕なら

「食べない方がいいので捨てて、もう二度と買わない方がいいと思います」

 と書く。ちょっとくらいは大丈夫だからといって、何も有害なものを選択的に摂る必要はない。あるいは、マーガリンの味がとても好きで、害はあってもどうしても食べたいとか、そういう場合なら食べることを理解できる。そうでないなら他の油を使った方がいいに決まっている。

 日本ではトランス脂肪酸についての認識が驚くほど低いので、念の為ここに書いておきます。
 マーガリンは体に悪いです。

 僕がここに返信を書き込んだ人々に対して感じたのは、幻想の健常だった。それは「バランスよく、適度になら大丈夫」という幻想だ。彼らはどこかに絶対的な真ん中みたいなものがあって、そこに支柱を立ててバランスをとろうとする。だけど、その支柱が立っている地面自体が、そのベースが果たしてバランスのとれたところにあるのかどうか、ということは考えもしない。マーガリンを食べ過ぎなければいい、というのは支柱を「マーガリンを食べることが普通」の社会に突き立てての話にすぎない。そこにはマーガリンの化学的な性質は当然含まれておらず、「植物性だからマーガリンはヘルシーだ」みたいな科学レベルが低かった時代の残り香すら存在している。マーガリンがなかった時代のことなんて想像もしない。

 昔はマーガリンがなかった。ある人がマーガリンを発明した。植物油を加工して、とても便利なマーガリンが作れるようになった。腐らないし安いし便利なので人々は喜んでそれを使うようになった。ところが、それは人体に有害なものを含んでいることが最近分かった。

 じゃあ、もうマーガリンを使うのをやめるのが普通の考え方だと思う。あるいはトランス脂肪酸がゼロのものを作るか(これは現に売られているようです。もちろん日本では売っていません)。

 だけど「普通にしている分には大丈夫なのに神経質な人は気にしています」みたいな書き込みがあるのはポストモダンの世の中だとは思えない。ニーチェが今現れたら激昂するだろう。
 なぜなら、この「普通にしていれば大丈夫、一部の人が騒いでるだけ」というのは、「状況を変えるのは面倒だから避けたいし、それにみんな一緒だからきっと大丈夫だよ。見なかったことにして安心してようよ」というのに等しいからです。蓄郡の発想ですね(言葉は悪いですが確かニーチェの用語なので使います)。当然、蓄郡は「みんな同じ」が大好きなので、「一部の神経質な人々」のことが大嫌いです。さらに、蓄郡のなかでは「みんな同じ」というのが最優先される価値観なので、意見の論理性には全く拠らず、「一部の神経質な人々」の意見は単にそれが「みんなと違う」というだけで「馬鹿にしても良いもの」となります。だからマイノリティがある閾値を越えるまで大衆は聞く耳を持たない。

 同じことを繰り返すようですが、マーガリンの存在意義を考えるとき、僕達はマーガリンが発明される以前の状態を考慮した方がいい。マーガリンがあって当たり前の世界に立って、それを選択するのはバイアスがかかっている。
 もしも今までマーガリンなんてものがこの世界に存在していなくて、今日僕が目の前で植物油を加工してはじめてマーガリンを作って、それの成分を分析してみたら有害なトランス脂肪酸が10パーセント含まれていました。それをみんなは食べたがるのか、とういうことです。さらに僕が「これを世界に広く販売しよう」と言い出したら普通は止めるのではないか、ということです。