連載小説「グッド・バイ(完結編)」17

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。



・誘惑(二)

 耐えた。よし。快勝。バンザイ。田島は、涼しい美人の酒場を、無事あとにした。これが、真人間の生き方だ。妻も、子も、父がこんな精神の努力をしたとは知らないで、田舎の家で生活をしているだろう。父は、立派に、誘惑を負かしました。安心して下さい。宣伝したいくらいの気持ちになっている。
 それにしても、もし。田島は、まだグズグズと考えていた。あの女の人に、ちょっと一言掛けていたら。女たらしの遊び人、ではない。田島は、ウツボなりに真剣であった。まだ、胸中脈々とすらしている。一目惚れ、ではない。田島が思うのは、袖触れ合うも他生の縁。今の、涼しい人に、ここですれ違ったのも、これも何かの縁だったのかもしれない。話せば人生が違っていた、かもしれない。ご縁はきっと大切です。こっちが、本当は真人間の道だったかもしれないのだ。もう、二度と会うことはない。さっきのが、何億分の一の、奇跡の確率。我、ついに奇跡を体験するも、気付かず逃した。間抜け。君は、永遠を知っているか。永遠はただ形而上の、人間の生活に無縁の概念と違います。あの人には、もう永遠に、会えない。
 田島はいつも、その永遠の重みに耐えることができなかった。そこで、ついつい声を掛ける。

 しかし、今回はこれで良かったのだ。良かった。戸崎サチヨとだって、大体そのようにして、やや怪訝な雰囲気のままずるずると、情が深まるに任せて身動きが取れなくなったのではなかったか。
 戸崎さんは、田島が付くまでもなく、財産のある人だった。別段大きくはないものの、一家族が暮らすには十分な家を代々木に持っていて、そこに手伝い一人雇って暮らしていた。財産のことを、根掘り葉掘り聞けるものでもないので、詳しいことは知らないままだが、亡くなったご主人が、戦争でしこたま儲けて残してくれたそう。世の中には、戦争で、あんな人殺しなんかで、お金をしこたま儲ける人もあるのだ。「そんなお金で、立派なお家を東京の山の手に構え、お手伝いまで雇って、どんな素敵な心持ちの暮らしでしょうかね。」なんて、はじめてカウンターで隣に座った時、田島は冗談のつもりで言ったら、もう戸崎さんの打ちのめされること。
「すみません。どうも、酔いがまわりすぎているみたいで。」
「いえ、構いませんの、本当のことですから。お酒は、人を正直にすると言います。」
「そんな。それじゃ、まるで僕が意地の悪い人間みたいじゃないですか。本音だなんて。さっきのは、まったく只の冗談。でも。ええ、正直に言いましょう。あなたを困らせるための冗談でした。」
「あら、困らせるだなんて、酷い人ですね。」
 田島は、酷い人という形容に相応しい男だが、口が上手。
「どうして、僕が、あなたを妬ましいと思ったからです。本当に。こんなにお綺麗で、お金もうんとあって。」
「あら、綺麗だなんて、困った人ですわね。」
「きれいで、何が困りますか。僕は今こそ正直です。」
「正直は、私の方ですわ。お金の話なんて人にするものではありません。特別、言いました。」
 二人、最初から気にいって、ジャレていただけのこと。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」16

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。

・誘惑(一)

 作戦が、良くなかった。初老文士の冗談を、意外に名案なんて藁に縋ったのが悪かった。馬鹿。涙は、もうたくさん。サヨナラは、もうたくさん。田島はキヌ子を連れて、愛人と別れ歩くのを、ここ十日やめにしている。あちこち遊び歩くくせ、感傷的で、一人、大事そうに悲しい気持ちを抱えて、本人は至って真剣な悩み具合。離別は、言うも、言われるも、同じ苦しみ。なあんて立派らしく、頭を抱えている。そして、どうせ行き着く先は、また泥酔の酔っぱらい。傷心を、隠そうにも隠しきれぬ、まるでどうしようもなく滲み出したふりを装ってキザな演技。こんなに傷ついていては、もう仕方ない。どうにでもしてやれ。何か間違いをしても、辛さ故。辛さで、どうかしていました。冷静な、普段通りの理知を、つい忘れてしまって。きっと許される。許して、下さい。
 田島にかかれば、傷心もエクスキューズ。体の良い言い訳。それを罠にして、まるで獲物を待つヘビ。あるいはウツボ。頭の中はウツボでも、田島はちょっとした好男子であった。雨に打たれた、善良な犬の無垢さで、背中が語る。それを気にして、ちょっとでも目を合わせようものなら、このウツボ、噛み付いて離さない。もちろん、美人のみ。
 あっ、田島好みの、涼しい美人が笑いかける。
 いや、いけない。もう、全てやめにするのだ。女房と、我が子のことを想え。田舎から、この東京へ呼び寄せて、一家の大黒柱、仕事の帰りにケーキでも買って帰れば、その喜ぶ顔のどんなに輝かしかろう。正真正銘の、父になります。あの決心はどうした。ただでさえ、残る愛人との離別が、目も背けたく横たわっているというのに。
 涼しい美人が、また、こっちをチラリ。
 田島、どうしても気になって落ち着かない。この人は、きっと、僕を好いている。自惚れ。自信家? 馬鹿? しかし、長年の女遊びの効用、田島はどんな女の人が自分を好きになるか、直感で判別する能力を体得していた(おそろしや)。無駄な、恥はかかない。その辺、並々ならぬ虚栄心が、感覚を研ぎ澄ませる。田島はプレイボーイの風で、女の人に断られると三日寝込む。三日間、あの人は、田島を良く思わなかったのではなく、田島に惹かれたけれど、ぐっと堪えたのだ。良人に、契堅く結んだ、誠実な人だったのだ。そういうことだったのだ。はなはだ都合良く、自分を慰めて、ようやく立ち上がり、また酒を飲みに歩く。
 田島は本当は、酒がマズイ。嫌い。だから家では一滴も飲まなかった。あんなものを飲むなら、水か、それとも出がらしのコーヒーでも。田島が、出歩いて酒を飲むのは、酒の席以外に人と話す手だてを知らなかったから。酔っ払うまで、まずいのを我慢。だから、ゴクゴクと飲みっぷりは男前。ちょっと、可哀想かもしれない。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」15

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。


・コールド・ウォー (四)

「お見舞いに持っていった饅頭を、あなたが食べて、意地汚いケチね、いつも。」
 帰りに入った蕎麦屋で、キヌ子が鴉声を出した。五千円以上は、水の一杯もキヌ子に与えるつもりがなかったのに、気持ちがしおれて、思わず蕎麦屋へ。田島が言い訳をする間もなく、「あの女の人も、詰まらない人だったわね、物悲しそうに。天麩羅も頼みます」
 またしても鴉声はたくさんお食べになる。お洒落な田島は、腹が立つより恥ずかしくなった。飲んでやれ。
「あの、それから、お酒を。」
「あら、あなたは、いつもお酒で誤魔化すのね」
 鴉、常に、ここへ、在り。
「あの人が可哀想で、自分が残酷なのを、素面では見れないんだわ」
「違う、君、天麩羅かってに頼んで、これは自分で払ってもらう」
 また、誤魔化した。
 三十四年間、田島周二、誤魔化しの日々。
 キヌ子に天麩羅まで喰われて、悲痛の酒を飲むのであれば、さっさと、まっすぐに帰れば良かった。田島は後悔した。しかし、帰っても、どうする? 話す相手が、誰もいない。あの厄介な文士連中は、肴にするだけ。「そんなに心痛むなら、兵隊の兄に、思い切りぶん殴ってもらえ。」
 無論、他の愛人達に慰めてもらうなんて論外。気の置けない友の一人もなし。ああ、新しい愛人でも作って。否、否!

 田島の話相手は、キヌ子の他、誰もなかった。
 永井キヌ子、容姿は抜群。声は台無し。教養もなし。でも、事情を全部飲み込み、意外に正しそうなことも言う。せめて、こんなに金が掛からなければ。もっと、仲を深めるよう努力し、善意の協力を引き出すのが良かろうか。
「きみ。」田島はいやらしい声を出した。
「何よ、天麩羅は払わないわよ。」
「天麩羅は、もういいです。ついでに、お酒も、飲みませんか?おごります。」
「要らないわよ、あなたからお酒なんて、死んでも飲まない。」
「いや、この前のことは、あれは間違いで、酔っ払っていたものだから、今日はほんの労いの一杯」
「前のことなんて、覚えてやしません。労いだなんて、どうせ誤魔化すつもりのくせに。お酒を飲ませるお金があるのなら、一日五千円じゃなくて一万円お出し」
 出た。底なしの強欲の恥知らず。
 だが、撥ね付けるのも威勢が悪い。正直、田島は孤独だった。
「君ねえ、これは裏のない、本当にまっさらな、僕からの慰労で、時には人を疑わず、素直に受け入れるのも大事じゃあないですか。僕は今、真剣だ。」
「あなたが、まっさらな気持ちで、何かできるはずありませんから。泣きそうな演技も無駄よ」
 自分が泣きそうな表情を浮かべていることを、田島は知らなかった。狼少年の、声はただ疑われ。顔も疑われる。田島は、もう本当がない。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」14

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。


・コールド・ウォー (三)

 ケイ子の兄は、予想以上の大男であった。これでは、いざという場合に、キヌ子の怪力も通用しないのではないか。田島は不安になった。キヌ子の方では、一向に気を留める様子なく、約束通り黙って澄ましている。それもそのはず、ケイ子の兄から暴力乱暴を受ける人間は田島であって、キヌ子ではない。キヌ子は、なんであれば、助けないで、ただ袖からでも見ていればいい。もとより五千円だけの関係。しまった。が、もう遅い。ケイ子の兄は、キヌ子の美貌になんらの注意を払う様子なく、田島とキヌ子を奥へ通した。

「風邪は、もう良くなりましたか。」と言いながら部屋に入る。ケイ子は薄い蒼の布団へ座っている。田島を見て、そしてキヌ子を見ると、不安定な表情が過ぎった。キヌ子が優雅にお辞儀をして、ケイ子はおずおずと会釈を返した。
「いやあ、ほら、田舎の女房をね、呼び寄せたから、挨拶に来ましたよ、お見舞いも兼ねて。」
 田島は、キヌ子に目配せをして、持たせていた花園万頭を渡すよう促した。見舞いの品と見せかけて、泣き止ましの薬である。もしも、泣き虫のケイ子が泣き出したら、兄が気付く前に饅頭を食わせ気分を落ち着ける魂胆なのだ。女は、甘いものを食べさせれば泣き止む、と田島はそのような噂を信じていた。いや、本当は信じていなかったが、信じていると思う他、泣き止ましのアイディアがなかった。とにかく、あの邪魔っけなケイ子の兄に、自分とケイ子の関係を悟られてはならぬ。筋骨予想以上と分かったからには、なんとしても静かに離別を終え、ここを無事に出ていかなくてはならない。
「そうですか。」と一言、ケイ子は黙り、泣きもしなかった。饅頭も食べない。しばらくして「画の相談と、兄が申していましたが。」
「いや、それはまた、風邪の方がすっかり良くなってからで構いませんよ。急ぎでもないので。今日は、お見舞いに寄っただけなんですから。」
「そうですか。」
 ケイ子は、キヌ子を田島の本当の妻だと思っているようで、田島夫妻の円滑を壊すまいと、自分はただ田島のところの雑誌に、挿絵を描いている、それだけの人間を演じているようだった。風邪で優れないところ、このように卑怯くさい離別の演技を持ち込まれ、それで、この健気。
 僕は、悪人だ。いや、悪そのもの。せめてお金は、しっかりと、渡さなければならない。そして、きっぱりと、別れる。それがこの人の幸せにも、繋がるのだ。きっと、この人は大丈夫だ。軍人上がりの兄だって、ついている。
「ちょっと失礼。」田島は饅頭を一つ、包みから取り出して、食べた。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」13

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。



・コールド・ウォー (二)

 こうなったら、とにかく、キヌ子を最大限に利用し活用し、一日五千円を与える他は、パン一かけら、水一ぱいも饗応せず、思い切り酷使しなければ、損だ。温情は大の禁物、わが身の破滅。
 キヌ子に殴られ、ぎゃっという奇妙な悲鳴を挙げても、田島は、しかし、そのキヌ子の怪力を逆に利用する術を発見した。
 彼のいわゆる愛人たちの中のひとりに、水原ケイ子という、まだ三十前の、あまり上手でない洋画家がいた。田園調布のアパートの二部屋を借りて、一つは居間、一つはアトリエに使っていて、田島は、その水原さんが或る画家の紹介状を持って、「オベリスク」に、さし画でもカットでも何でも描かせてほしいと顔を赤らめ、おどおどしながら申し出たのを可愛く思い、わずかずつ彼女の生計を助けてやる事にしたのである。物腰がやわらかで、無口で、そうして、ひどい泣き虫の女であった。けれども、吠え狂うような、はしたない泣き方などは決してしない。童女のような可憐な泣き方なので、まんざらでない。
 しかし、たった一つ非常な難点があった。彼女には、兄があった。永く満洲で軍隊生活をして、小さい時からの乱暴者の由で、骨組もなかなか頑丈の大男らしく、彼は、はじめてその話をケイ子から聞かされた時には、実に、いやあな気持がした。どうも、この、恋人の兄の軍曹とか伍長とかいうものは、ファウストの昔から、色男にとって甚だ不吉な存在だという事になっている。
 その兄が、最近、シベリヤ方面から引揚げて来て、そうして、ケイ子の居間に、頑張っているらしいのである。
 田島は、その兄と顔を合せるのがイヤなので、ケイ子をどこかへ引っぱり出そうとして、そのアパートに電話をかけたら、いけない、
「自分は、ケイ子の兄でありますが。」
 という、いかにも力のありそうな男の強い声。はたして、いたのだ。
「雑誌社のものですけど、水原先生に、ちょっと、画の相談、……」
 語尾が震えている。
「ダメです。風邪をひいて寝ています。仕事は、当分ダメでしょう。」
 運が悪い。ケイ子を引っぱり出す事は、まず不可能らしい。
 しかし、ただ兄をこわがって、いつまでもケイ子との別離をためらっているのは、ケイ子に対しても失礼みたいなものだ。それに、ケイ子が風邪で寝ていて、おまけに引揚者の兄が寄宿しているのでは、お金にも、きっと不自由しているだろう。かえって、いまは、チャンスというものかも知れない。病人に優しい見舞いの言葉をかけ、そうしてお金をそっと差し出す。兵隊の兄も、まさか殴りやしないだろう。或いは、ケイ子以上に、感激し握手など求めるかも知れない。もし万一、自分に乱暴を働くようだったら、……その時こそ、永井キヌ子の怪力のかげに隠れるといい。
 まさに百パーセントの利用、活用である。
「いいかい? たぶん大丈夫だと思うけどね、そこに乱暴な男がひとりいてね、もしそいつが腕を振り上げたら、君は軽くこう、取りおさえて下さい。なあに、弱いやつらしいんですがね。」
 彼は、めっきりキヌ子に、ていねいな言葉でものを言うようになっていた。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」12


(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。

・コールド・ウォー (一)

 田島は、しかし、永井キヌ子に投じた資本が、惜しくてならぬ。こんな、割の合わぬ商売をした事が無い。何とかして、彼女を利用し活用し、モトをとらなければ、ウソだ。しかし、あの怪力、あの大食い、あの強慾。
 あたたかになり、さまざまの花が咲きはじめたが、田島ひとりは、頗る憂鬱。あの大失敗の夜から、四、五日経ち、眼鏡も新調し、頬のはれも引いてから、彼は、とにかくキヌ子のアパートに電話をかけた。ひとつ、思想戦に訴えて見ようと考えたのである。
「もし、もし。田島ですがね、こないだは、酔っぱらいすぎて、あはははは。」
「女がひとりでいるとね、いろんな事があるわ。気にしてやしません。」
「いや、僕もあれからいろいろ深く考えましたがね、結局、ですね、僕が女たちと別れて、小さい家を買って、田舎から妻子を呼び寄せ、幸福な家庭をつくる、という事ですね、これは、道徳上、悪い事でしょうか。」
「あなたの言う事、何だか、わけがわからないけど、男のひとは誰でも、お金が、うんとたまると、そんなケチくさい事を考えるようになるらしいわ。」
「それが、だから、悪い事でしょうか。」
「けっこうな事じゃないの。どうも、よっぽどあなたは、ためたな?」
「お金の事ばかり言ってないで、……道徳のね、つまり、思想上のね、その問題なんですがね、君はどう考えますか?」
「何も考えないわ。あなたの事なんか。」
「それは、まあ、無論そういうものでしょうが、僕はね、これはね、いい事だと思うんです。」
「そんなら、それで、いいじゃないの? 電話を切るわよ。そんな無駄話は、いや。」
「しかし、僕にとっては、本当に死活の大問題なんです。僕は、道徳は、やはり重んじなけりゃならん、と思っているんです。たすけて下さい、僕を、たすけて下さい。僕は、いい事をしたいんです。」
「へんねえ。また酔った振りなんかして、ばかな真似をしようとしているんじゃないでしょうね。あれは、ごめんですよ。」
「からかっちゃいけません。人間には皆、善事を行おうとする本能がある。」
「電話を切ってもいいんでしょう? 他にもう用なんか無いんでしょう? さっきから、おしっこが出たくて、足踏みしているのよ。」
「ちょっと待って下さい、ちょっと。一日、三千円でどうです。」
 思想戦にわかに変じて金の話になった。
「ごちそうが、つくの?」
「いや、そこを、たすけて下さい。僕もこの頃どうも収入が少くてね。」
「一本でなくちゃ、いや。」
「それじゃ、五千円。そうして下さい。これは、道徳の問題ですからね。」
「おしっこが出たいのよ。もう、かんにんして。」
「五千円で、たのみます。」
「ばかねえ、あなたは。」
 くつくつ笑う声が聞える。承知の気配だ。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」11


(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。



・怪力 (四)

「ピアノが聞えるね。」
 彼は、いよいよキザになる。眼を細めて、遠くのラジオに耳を傾ける。
「あなたにも音楽がわかるの? 音痴みたいな顔をしているけど。」
「ばか、僕の音楽通を知らんな、君は。名曲ならば、一日一ぱいでも聞いていたい。」
「あの曲は、何?」
ショパン。」
 でたらめ。
「へえ? 私は越後獅子かと思った。」
 音痴同志のトンチンカンな会話。どうも、気持が浮き立たぬので、田島は、すばやく話頭を転ずる。
「君も、しかし、いままで誰かと恋愛した事は、あるだろうね。」
「ばからしい。あなたみたいな淫乱じゃありませんよ。」
「言葉をつつしんだら、どうだい。ゲスなやつだ。」
 急に不快になって、さらにウイスキイをがぶりと飲む。こりゃ、もう駄目かも知れない。しかし、ここで敗退しては、色男としての名誉にかかわる。どうしても、ねばって成功しなければならぬ。
「恋愛と淫乱とは、根本的にちがいますよ。君は、なんにも知らんらしいね。教えてあげましょうかね。」
 自分で言って、自分でそのいやらしい口調に寒気を覚えた。これは、いかん。少し時刻が早いけど、もう酔いつぶれた振りをして寝てしまおう。
「ああ、酔った。すきっぱらに飲んだので、ひどく酔った。ちょっとここへ寝かせてもらおうか。」
「だめよ!」
 鴉声が蛮声に変った。
「ばかにしないで! 見えすいていますよ。泊りたかったら、五十万、いや百万円お出し。」
 すべて、失敗である。
「何も、君、そんなに怒る事は無いじゃないか。酔ったから、ここへ、ちょっと、……」
「だめ、だめ、お帰り。」
 キヌ子は立って、ドアを開け放す。
 田島は窮して、最もぶざまで拙劣な手段、立っていきなりキヌ子に抱きつこうとした。
 グワンと、こぶしで頬を殴られ、田島は、ぎゃっという甚だ奇怪な悲鳴を挙げた。その瞬間、田島は、十貫を楽々とかつぐキヌ子のあの怪力を思い出し、慄然として、
「ゆるしてくれえ。どろぼう!」
 とわけのわからぬ事を叫んで、はだしで廊下に飛び出した。
 キヌ子は落ちついて、ドアをしめる。
 しばらくして、ドアの外で、
「あのう、僕の靴を、すまないけど。……それから、ひものようなものがありましたら、お願いします。眼鏡のツルがこわれましたから。」
 色男としての歴史に於いて、かつて無かった大屈辱にはらわたの煮えくりかえるのを覚えつつ、彼はキヌ子から恵まれた赤いテープで、眼鏡をつくろい、その赤いテープを両耳にかけ、
「ありがとう!」
 ヤケみたいにわめいて、階段を降り、途中、階段を踏みはずして、また、ぎゃっと言った。