連載小説「グッド・バイ(完結編)」14

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。


・コールド・ウォー (三)

 ケイ子の兄は、予想以上の大男であった。これでは、いざという場合に、キヌ子の怪力も通用しないのではないか。田島は不安になった。キヌ子の方では、一向に気を留める様子なく、約束通り黙って澄ましている。それもそのはず、ケイ子の兄から暴力乱暴を受ける人間は田島であって、キヌ子ではない。キヌ子は、なんであれば、助けないで、ただ袖からでも見ていればいい。もとより五千円だけの関係。しまった。が、もう遅い。ケイ子の兄は、キヌ子の美貌になんらの注意を払う様子なく、田島とキヌ子を奥へ通した。

「風邪は、もう良くなりましたか。」と言いながら部屋に入る。ケイ子は薄い蒼の布団へ座っている。田島を見て、そしてキヌ子を見ると、不安定な表情が過ぎった。キヌ子が優雅にお辞儀をして、ケイ子はおずおずと会釈を返した。
「いやあ、ほら、田舎の女房をね、呼び寄せたから、挨拶に来ましたよ、お見舞いも兼ねて。」
 田島は、キヌ子に目配せをして、持たせていた花園万頭を渡すよう促した。見舞いの品と見せかけて、泣き止ましの薬である。もしも、泣き虫のケイ子が泣き出したら、兄が気付く前に饅頭を食わせ気分を落ち着ける魂胆なのだ。女は、甘いものを食べさせれば泣き止む、と田島はそのような噂を信じていた。いや、本当は信じていなかったが、信じていると思う他、泣き止ましのアイディアがなかった。とにかく、あの邪魔っけなケイ子の兄に、自分とケイ子の関係を悟られてはならぬ。筋骨予想以上と分かったからには、なんとしても静かに離別を終え、ここを無事に出ていかなくてはならない。
「そうですか。」と一言、ケイ子は黙り、泣きもしなかった。饅頭も食べない。しばらくして「画の相談と、兄が申していましたが。」
「いや、それはまた、風邪の方がすっかり良くなってからで構いませんよ。急ぎでもないので。今日は、お見舞いに寄っただけなんですから。」
「そうですか。」
 ケイ子は、キヌ子を田島の本当の妻だと思っているようで、田島夫妻の円滑を壊すまいと、自分はただ田島のところの雑誌に、挿絵を描いている、それだけの人間を演じているようだった。風邪で優れないところ、このように卑怯くさい離別の演技を持ち込まれ、それで、この健気。
 僕は、悪人だ。いや、悪そのもの。せめてお金は、しっかりと、渡さなければならない。そして、きっぱりと、別れる。それがこの人の幸せにも、繋がるのだ。きっと、この人は大丈夫だ。軍人上がりの兄だって、ついている。
「ちょっと失礼。」田島は饅頭を一つ、包みから取り出して、食べた。