連載小説「グッド・バイ(完結編)」16

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。

・誘惑(一)

 作戦が、良くなかった。初老文士の冗談を、意外に名案なんて藁に縋ったのが悪かった。馬鹿。涙は、もうたくさん。サヨナラは、もうたくさん。田島はキヌ子を連れて、愛人と別れ歩くのを、ここ十日やめにしている。あちこち遊び歩くくせ、感傷的で、一人、大事そうに悲しい気持ちを抱えて、本人は至って真剣な悩み具合。離別は、言うも、言われるも、同じ苦しみ。なあんて立派らしく、頭を抱えている。そして、どうせ行き着く先は、また泥酔の酔っぱらい。傷心を、隠そうにも隠しきれぬ、まるでどうしようもなく滲み出したふりを装ってキザな演技。こんなに傷ついていては、もう仕方ない。どうにでもしてやれ。何か間違いをしても、辛さ故。辛さで、どうかしていました。冷静な、普段通りの理知を、つい忘れてしまって。きっと許される。許して、下さい。
 田島にかかれば、傷心もエクスキューズ。体の良い言い訳。それを罠にして、まるで獲物を待つヘビ。あるいはウツボ。頭の中はウツボでも、田島はちょっとした好男子であった。雨に打たれた、善良な犬の無垢さで、背中が語る。それを気にして、ちょっとでも目を合わせようものなら、このウツボ、噛み付いて離さない。もちろん、美人のみ。
 あっ、田島好みの、涼しい美人が笑いかける。
 いや、いけない。もう、全てやめにするのだ。女房と、我が子のことを想え。田舎から、この東京へ呼び寄せて、一家の大黒柱、仕事の帰りにケーキでも買って帰れば、その喜ぶ顔のどんなに輝かしかろう。正真正銘の、父になります。あの決心はどうした。ただでさえ、残る愛人との離別が、目も背けたく横たわっているというのに。
 涼しい美人が、また、こっちをチラリ。
 田島、どうしても気になって落ち着かない。この人は、きっと、僕を好いている。自惚れ。自信家? 馬鹿? しかし、長年の女遊びの効用、田島はどんな女の人が自分を好きになるか、直感で判別する能力を体得していた(おそろしや)。無駄な、恥はかかない。その辺、並々ならぬ虚栄心が、感覚を研ぎ澄ませる。田島はプレイボーイの風で、女の人に断られると三日寝込む。三日間、あの人は、田島を良く思わなかったのではなく、田島に惹かれたけれど、ぐっと堪えたのだ。良人に、契堅く結んだ、誠実な人だったのだ。そういうことだったのだ。はなはだ都合良く、自分を慰めて、ようやく立ち上がり、また酒を飲みに歩く。
 田島は本当は、酒がマズイ。嫌い。だから家では一滴も飲まなかった。あんなものを飲むなら、水か、それとも出がらしのコーヒーでも。田島が、出歩いて酒を飲むのは、酒の席以外に人と話す手だてを知らなかったから。酔っ払うまで、まずいのを我慢。だから、ゴクゴクと飲みっぷりは男前。ちょっと、可哀想かもしれない。