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「君の名は」:社会の疲弊とフィクション

 何でもない家の前に女の子が1人立っている。彼女は満面に笑みを浮かべていて、その理由は分かる人には写真を見るだけで分かる。家の作りからすると、写真が撮られたのはアメリカのどこかの住宅街で、幸いなことに背後の空は抜けるように晴れている。そうか、ここはカリフォルニアで雨なんてそんなに降らないか。
 そうここはカリフォルニア。笑顔は快晴のお陰ではなくて、写っている家がある有名なテレビドラマのロケ地だったからだ。
 いつもクールでシニカルな彼女が、あまりに幸福そうに笑っているその写真を見て、僕はフィクションというものを過小評価していたのではないかと思う。フィクションはただのお話で嘘っぱちで、面白いけれどただの虚構で、そんなものロケットを飛ばしたり半導体を設計したりすることに比べれば取るに足らないおままごとだと思っていた。でも、もしかしたら、ロケットを飛ばすのと同じくらいの正当性というか実用性というか、ざっくばらんに価値みたいなものがフィクションにもあるのではないかと、その写真を見てから考えるようになった。
 そういえば、物語に一切触れずに育った人はたぶんいないし、自分が一切物語に触れずに育ったらどうなっていたのかは想像の範疇を超えている。

 「耳をすませば」という映画の冒頭部分を何度も何度も繰り返して見ていたことがある。冒頭部分で描かれているのは映画の舞台である聖蹟桜ヶ丘の何でもない日常のシーンで、電車が走っていたり、サラリーマンが帰宅途中だったり、コンビニがあったりという本当にありふれたものしか出てこない。けれど僕はその数分間の映像にすっかりと心奪われて何度も何度も繰り返して見ていた。当時は京都に住んでいて、聖蹟桜ヶ丘という多摩市の街のことは何も知らなかったから、街に親近感があったというわけではない。「なんでもない日常が丁寧に描かれている」ということにまつわる何かに僕は魅了されたのだと思うが、それがどういうことなのかは分からなかった。
 この奇妙に強力な魅力は一体なんだろうという漠然とした疑問が、それから頭を離れない。
 
 去年の2月、京都から東京へ引っ越しをした。
 荷物は送って、僕自身は50ccのバイクで移動した。50ccのバイクでは高速道路には入れないので、ずっと下道を走ることになる。だから途中で地図を何度も見ることになるのだけど、豊橋辺りで地図上に現れた文字にドキッとした。「飯田線」とそこには書かれていた。そうか豊橋だ、豊橋稲荷の豊橋だ。豊橋からは飯田線が出ていて北上して行くと田切や伊那がある。
 一体何のことかというと、飯田線は僕が中学生のときに好きだった「究極超人あ~る」という漫画のOVAの舞台だったのだ。そんな20年以上昔に見たアニメのことなんてすっかり忘れていた。飯田線という地図に描かれた文字は記憶を呼び覚まし、あの頃はただ遠いどこかとしか思えなかった飯田線の近くに今自分がいるのだという事実に心がザワザワとした。そのザワメキは思いがけず大きなものだった。そうか、アニメの聖地巡りというのはきっと楽しいのだろうな、と思う。同時に、どうしてフィクションの中に出てきた場所に今自分がいるからといって喜ばなくてはならないのだろうという疑問も頭をもたげた。あれは全部作り話だ。アニメの中で起こったことは現実には起こっていない。ここに彼らは来ていない。そもそも彼らは存在していない。僕は完全な虚構に対して勝手な感動をしている。
 だけど、その勝手な無根拠に思える感動は確かな感じもした。
 
 以上3つのパラグラフは、フィクションと現実の関係性を僕に突きつけてきた3つの出来事だ。
 この3つの出来事がなければ、たぶん僕は「君の名は」を見に行っていない。もともと恋愛を核に据えた物語は嫌いだし、タイトルも恥ずかしいし、何度か目についたトレーラーは子供をターゲットにしたJ-POPのMVみたいだった。つまり子供騙しにしか見えなかった。
 映画を見に行きたいと思ったのは、新海誠監督のインタビューを見たせいだ。
 新海さんは、丁寧で思慮深い話し方でどうして美しい風景を描くのかを説明していた。高校生のときに夕日が沈んでいくのを見て世界との一体感を感じて涙が出てきたという体験。気分の良いときに見る景色は美しいから、反対に美しい風景を見れば人は良い気分になるのではないかという考え。それらの話は「幸せだから笑うんじゃなくて、笑うから幸せになるんだ」みたいな気味悪さを持っていて賛同というわけにはいかないのだが、新海さんがかなり意図的に人の心に働きかけようとして新海マジックと言われるキラキラした作画をしていることが分かった。無論、アニメ作家が何も考えないでただ景色をキラキラ描くということはないのだろうけれど、意図が明確に新海さん自身の口から語られ、僕は先程挙げた3つの体験を思い出した。
 新海誠という人に興味を持った僕は、youtubeで見つけた新海さんがトップランナーに出演したときの動画も見てみた。放送されたのは2005年と随分古い。まだ30歳を少し過ぎただけの若い新海誠は自分1人で作ったアニメ映画がネットで話題になり映画館で上映されたりして既に大活躍していた。話し方は丁寧で明快でやはり思考の柱が立っていて、質問に答えるときには質問者の想定した予定調和に流されることがない。そして社会というものを意識して分かりやすさを念頭において制作していると彼は言っていて、僕はこの人が作った作品を見てみたいと思った。それで映画館に足を運ぶことにした。
 
 映画は思っていたよりも面白かった。劇中で描かれるきらびやかに装飾された日常風景がどういう具合に働くのかをやや分析的に見るつもりだったけれど、テンポの良い話の中に引き込まれて単純に鑑賞してしまった。好きか嫌いかと聞かれたら返答には困ると思うし、きっとやや嫌いだと答えるだろう。ラブストーリーは好きではないし、記憶を失うというギミックも嫌いだ。でも物凄い熱量と情報量には圧倒された。そして緻密にきらびやかに描かれた風景には違和感を感じた。
 この違和感をどのように表現すれば良いのか分からないうちに、映画のことは忘れていた。
 違和感について進展があったのはつい先日のことだ。話をしていて「君の名は、見たけれど、どこかの宗教が作ってるアニメを連想しちゃって、ちょっと駄目だった」という感想を聞き違和感の謎が解けた。彼の言っていることは的確に僕の違和感を表現していた。引っかかっていたのは「宗教っぽい」ということだったのだ。

 このアニメ映画は大ヒットしているが、これは社会が疲弊して幼稚化していることの現れなのではないかと思う。
 長時間の面白みがなくただ辛いだけの仕事に生活費の為従事していてビジネススーツで満員電車に乗る希望を失った人が、新海誠の描く東京の景色などを思い出して、きらびやかに演出された東京を走る満員電車と辛いけれど頑張って通勤しているなんでもないけれど素敵な人々みたいなものを脳裏にイメージして、それで何かを誤魔化すのではないだろうか。こんなに詰まらない生活だって、あのアニメの中のキラキラした世界の一部として描かれたらどうだろうか、毎日嫌で嫌で楽しいこともないけれど、それは間違いで、本当はここはあのキラキラした東京で、私は頑張っている人々の1人で実は輝いているんだ、というように自分を騙すことができる。
 
 全ての映画には、全てのコンテンツには現実逃避の作用があって、それはコンテンツの魅力でもあるわけだが、逃避先であるフィクションと現実が半分重なった形で提示されるとフィクションと現実の混線が発生する。混線の具合にはどれくらい現実から逃避したいかという個々人の事情が影響する。混線が強ければ強いほど、現実世界はフィクションによってより強力に装飾され誤魔化される。
 
 新海さんの描く景色は緻密でリアリティがあって慈しみを感じる。現実と虚構が溶け合っていて、現実のすべての物が大げさに美しく描き直される。混線が発生する。たとえ描かれている対象が現実的には醜い事象あっても、それはこの美しい世界の一部であり肯定されるべきものだという危険な説得力があって、それはちょうどドキュメンタリー番組でサバンナの生き物がライオンに食い殺されても、これは美しい自然の一部だと納得してその哀れな牛だか鹿だかの痛みには目が行かなくなるのに似ている。
 細部まで緻密に書き込まれた写実性は、細部へ視線を誘導しそうに思えるが、実際には描かれている世界全体を成立させて離陸させる。
 つまり、全体としてのシステムが美しく肯定されるべきもので、それを構成する個々の事情はないがしろにされる。だけどもしも自分がライオンに襲われる鹿だったら、これが自然の摂理なのだなんて思っている場合ではない。全力で逃げなくてはいけないし、爪に掛かり牙に引き裂かれたときには激痛を体験して死んでいくのだ。
 全てを肯定する効果のある過剰に輝かしいアニメーションは、どうにかライオンから逃げなくてはならないという意思を人々から剥ぎ取る。人を麻痺させてこのままここに突っ立っていればそれでいいのだと思わせる。何かを嫌だと感じているのであれば、それはあなたが間違っていて、本当はあなたは既に美しい世界を生きていると語り掛けてくる。それは楽で魅力的な囁きだが、現実を変えないという意味合いで好ましくない。あの映画を見て、明日からもこの嫌な仕事を頑張ろうと思う人はいても、この嫌な仕事をやめてしまおうと思った人は少ないのではないだろうか。フィクションには強い影響力がある。それがある現実の問題を炙り出すのではなく隠蔽してしまう方向に働くときには、特にそれが癒やしと呼ばれるときには軽い嫌悪を覚える。
 当たり前のことだが、本当は東京はあんなにキラキラしていない。僕達はその世界を生きている。