西海岸旅行記2014夏(37):6月15日:ロサンゼルス、光と闇のサンタモニカビーチ


 サンタモニカビーチに着いたのは、夜10時を回った頃だった。「こんな時間にビーチというのもな」と思っていたけれど、僕の予想に反して駐車場にはたくさんの車がとまっていて、遊園地のようになった桟橋は子供から大人まで大勢の人達で賑わっている。店の明かり。観覧車のネオン。コースターのネオン。輝くちょっと懐かし目の遊園地。光を受けて賑やかな人達。真っ暗な海に長く付き出した明らかな桟橋は、テクノロジーが勝ち取った楽園のようだ。喧騒に疲れたら、静かなビーチで、少し遠目に桟橋と海を眺めればいい。気温も、薄いナイロンジャケットを羽織るとちょうどいい。なんて快適なところだろう。
 車を下りて桟橋へソワソワと向かった。
 ビーチではお祭りに良くいるインチキくさいオモチャ売りが何人かいて、LED付きの空に向かって飛ばすオモチャを2個6ドルとか言いながら売っている。ゴムで真上に飛ばすと、羽が付いていてゆっくり落ちてくるオモチャ。同じものは、韓国の東大門市場でも人でギュウギュウの真っ只中実演販売している人を見掛けた。彼らの実演と、実演に釣られて思わず購入した子供達が空に向かってLEDを放つので、ビーチには疎らに発光生物でも飛んでいるかのようだ。

 遊園地は射的とかバスケットボール投げがあるような、いわば子供だましのもので、きれいだけどまあ特にすることはない。ペニープレッサーで1セントを潰し、桟橋の全景を刻み込んだ後、フラッと一周して桟橋を先端まで歩いた。先端にはレストランがあって、その向こう側まで行くと海を眺める人の他に結構な数の釣り人が水面へ竿を伸ばしている。ネオン輝く遊園地のこんな近くで、静かに海面へ向かう釣り人達を見るとは思わなかった。それまであまり意識しなかった磯の香りが、そういえば確かにしている。
 後ろを振り返ると、相変わらずネオンの煌きが色とりどりだ。

 こんなにきれいなのに、僕達には別段することがない。
 このもどかしさを、僕はいつも感じる。
 大きな街は美しい。特に光をまとう夜は、そこだけ自然界から守られた楽園のようだ。
 飛行機から見下ろす大地に広がる都市の明かり。
 展望台から眺める都市の明かり。
 歩く道路から見上げる近代的高層ビル群には、全部の窓に電気が付いていて、外壁の広告スクリーンではきれいな女の子がビールを掲げる。
 前から後ろから、一体こんなに沢山の人がどこからどこへ行くのか、くたびれた人も楽しそうな人も、ビジネススーツの人もオシャレな人も、みんながどこかからどこかへ毎日毎日移動する。

 この美しい都市のダイナミズムに、どうすれば丸ごと肌身で触わることができるのだろう。全てが視界に收まる遠くからは、ただ眺めることしかできない。近づいて街に取り込まれれば、今度はピンポイントで入った1軒の店の中しか見えない。立ち並ぶビルのほとんどはオフィスビルで、入ったって仕方がないし、商業用ビルにはどうせ同じ店しか入っていない。
 そこに生活の根をゆっくりと下ろし、働いたり住み着いたりして、段々と知り合いとか馴染みの店を増やして、すこしづつ「ここは自分の街だ」という感覚を育てて行くしかないのだろうか。それにはとても時間が掛かるし、それでも肌身に触れるのは都市の一部でしかない。

 子供の時、僕は友達の家へ行くのがとても好きだった。はじめて見る人の家の中は実に面白い。ある時、近所の家のほとんどに入ったことがないことに気付いてびっくりした。近所どころか、僕は自分の住んでいる町に建っている家のほとんどに入ったことがないし、さらに世界中のほとんどの家に入ったことがない。世界中には何個家があるのだろうか。僕がほとんどの家の中を見ないで死んでいくことは確実だった。どう考えてもそれは確実だった。愕然とするような事実。
 都市を「味わえない」ことに対するもどかしさは、この時に感じた絶望に似ている。

 砂浜に引かれた道路を歩き、若きシュワルツェネッガー達が体を鍛え上げたという伝説的なマッスルビーチなんかを散歩して、僕達は車に戻った。もう真夜中を過ぎていたが、桟橋にはまだ明かりが灯っていて、まだわずかに発光生物も飛び上がっていた。