西はりま天文台訪問記05;地球人のような宇宙人さんへ

 前回、鳴沢真也さんの著書「宇宙人の探し方」について、すこし書きました。「地球人に似た宇宙人を探す」という辺りから、話を再開したいと思います。

 前回書いたように、「フェルミ・パラドクスならびに藤下パラドクス」「高度な文明があればたった500万年で銀河系は征服されているはず」ということを考えてみれば、なんというか宇宙人なんていないと考えるほうが論理的なのかもしれない気分になります(かなり曖昧な記憶ですが、そういえばファインマンは宇宙人はいないと言っていた気がします。地球には来ていない、だったかもしれません)。

 僕は、それでも気楽に宇宙人はいるだろうと思っているのですが、ここで鳴沢さんのスタンスを紹介させて頂きます。(iETは宇宙人のことです)

『私は、iETがいると絶対に信じていて、iETを見つけたいと思っているのではありません。いるかいないか、現代の科学でも分からないから、iETに関心を持つ者として、そして科学者の1人として「どちらなのかを知りたい」のです。』(44ページより引用)

 このように科学者として正当なスタンスが、本書の信頼感につながっています。
 きちんとした科学としての宇宙人探しです。
 言うまでもなく、もともとそんなの誰の許可も要らないのですが、もしも心のどこかに「大人の躊躇い」のようなものがあるのであれば、この本はきっとその躊躇いを解除してくれます。
 宇宙人の事、僕達は真剣に考えたって構いません。もちろん。

 宇宙人について語る時、僕達は「なるべく自由に考えなくてはならない」という強迫観念を持つ傾向があります。
 曰く、「それは地球の感覚を引きずって考えているからだ、水なんてなくても生命は誕生したかもしれないじゃないか。タンパク質なんてなくても石でできた宇宙人がいるかもしれないじゃないか。もっと自由に考えないと」

 それはロジックとしては正しいのかもしれませんが、具体的に物事を進めるときには、邪魔な信仰に成り得ます。
 もしも、「自由に」生命の定義を考えなおして、「自由に」知性の定義を考え直すのであれば、僕達は「月は実は知的生命体かもしれない」というような問いをいちいち検証していかなくてはなりません。
 それはデカルト的に全部疑って考え直す態度としては間違っていないでしょう。でも、実際のところ、そんなことをしている時間はないし、もしも「新しい自由な定義」で月が知的生命体であったとしても、月は月であり、僕達が彼を新たな隣人として実感することはとても難しいはずです。
もしかしたら、月面に向かって微分方程式をデジタル信号にしてレーザーで送ると、ある部分の反射がその解になっている、みたいなとんでもないコミュニケーションの方法があるのかもしれないけれど、たかだか100年しか生きない僕達にはそれを真剣に検証する時間はありません。なんでもかんでも闇雲にやってみれば良いというわけではなく、前回やや批判的に紹介したドレイク方程式のようなものを使って、どういう方針で探すのか「だいたいのアタリ」をつけなくてはなりません。

 だから、もうばっさりと、そういう「豊かな想像力」は切り捨てます。
 素直に、「地球人っぽい」感じの宇宙人にターゲットを絞って、彼らからの信号を探すことにします。
 僕達と同じような物質でできていて、僕達と似たような思考をする遙か遠くの隣人。彼らを探そう。
 そう決めると、漠然とした「宇宙人探し」は、とたんに現実味を帯びた科学になるのです。

ここで現実味というのは、僕達の今の科学では全天を常に観測し続けることはできない、という現実を中心とした現実味になると思います。
実は、宇宙人から送られてくる電波を探すとき、ラジオのアンテナのようなものを立てて終わりというわけには行きません。遠い星から送られてくる電波は微弱なので、パラボラで集める必要があります。なのでパラボラの向いている方向の電波しか観測できません。
これに関しては、だいたいは望遠鏡をイメージして頂くと良いかと思います。電波も光も周波数が違うだけで、実体は両方とも同じ電磁波です。遠くの光を観測する時、そちらへ望遠鏡を向けるのと同じように、遠くの電波を観測する時はパラボラアンテナをそちらへ向けます。実際に、これらのパラボラアンテナは「電波望遠鏡」と呼ばれます。

 観測できる空の部分がピンポイントなことに加えて、地球は自転しているので観測できる空の部位は時々刻々変化します。さらに、観測結果を解析するのにも大きな計算機資源が必要です。
 これはもうどうあったって、なるべく合理的にアタリを付けるしかありません。

 それでは、「地球人っぽい宇宙人」にターゲットを絞ることが果たして合理的なのか、鳴沢さんの著書を紐解いてみましょう。

『ここでお断りしておきたいのは、私は地球と同じような惑星に、地球と同じ形質(性質や特徴)を持った生命の存在を大前提としているということです。なぜなら、地球という惑星に、確かに生命のサンプルがあるので、まずはそれと同類の存在を考えることに根拠があると考えるからです。
 (中略)
 例えば、地球の生命の場合とは完全に異なる物質で形成されているiETの存在も想像はできますが、そういったものは本書では基本的には考えません。』(28ページより)

『DNAは、塩基や糖などによって形成されるヌクレオチドという物質が組み合わさってできています。ヌクレオチドを形成する塩基は4種類あるのですが、このうち2種類が2011年に隕石中に発見されました。また糖も隕石の中に見つかっています。
 このように、生命に必要な材料は、地球にだけ存在するものではないのです。よその惑星でも条件さえ整えば、このような物質は形成される可能性があります。生命を作る物質が存在するかどうかは、宇宙生命の存在を考える上でたいしたハードルではなさそうです。』(30ページより)

 僕達地球人という「宇宙人」が実際にいるのだから、こういう宇宙人がこの宇宙に存在しうることは既に事実で、かつ、その材料はよその星でも十分揃いそう、ということです。
 合理的ですね。探す宇宙人を地球人っぽい方々に限定したからといって、大きな差し障りはなさそうです。

 地球人っぽい宇宙人を探すことに決めると、空のどの辺りを重点的に探すか、ということについてアタリを付けることが可能になって来ます。地球に似た惑星のありそうなところを探せばいいわけです。
 ええ、完全に天文学の出番です。
 僕は、長い間天文学のことを良く知らず、子供の頃の漠然とした知識で止まっていたのですが、現代の天文学は当然ですけれどぐんと進化しているようです。楽しいですね。
 時間切れなので、続きは次回に!

宇宙人の探し方 地球外知的生命探査の科学とロマン (幻冬舎新書)
鳴沢真也
幻冬舎