落ち葉を奪って申し訳ないと樹々に思うこと

 最近、落ち葉を掃除する機会がよくあって、いつも微かな罪悪感を感じながら掃除をしています。地面がきれいになるのは心地良いことですが、本来はこの地面の上で朽ちて養分となるべきであった葉っぱを取り除いて持ち去るのは、樹々には申し訳のないことです。
 掃除というのは、一見とても平和な光景だけど、実はそういう残酷な面を持っている思います。

 それでは、葉っぱが散らかり放題のままで良いのかというと、僕は良いような気もしますが、今の街はそういうものを容認するようには設計されていません。
 庭先にしても、街路樹にしても、落ち葉を掃除しなくて良い、それを放置しても成立する街というのが、なんだか望ましい気がします。

 落ち葉を掃くという、一見、人に褒められこそすれけなされることのなさそうな行為は、僕達人間の身勝手な行為に過ぎません。

 これと同様の構図を、僕は山の手入れというものに感じます。

 たぶんこれは以前も書いたことがあるのですが、山にも人間の手入れが必要で、その際に出る間伐材を利用するのは良いことだ、という話を、僕はずっと不思議な気持ちで聞いていました。
 まず、どうして山という自然のものに人間の手入れが必要なのかが理解出来ませんでした。でも、実際に人間が放置した為に荒廃した森林などを見ると、そういう不思議な共生関係もあるのかもしれないし、山と人間が助けあって生きていくというイメージは美しかったので、それ以上深く考えませんでした。

 蓋を開けてみると、山が人間の手入れを必要とする理由はあっさりとしたものです。
 人間が、山を作り変えていました。
 日本は国土の7割が森林という世界有数の森林国家ですが、なんと森林の4割が人工林です。この広い国土のざっと3割が人工林だということです。
 高度経済成長期を中心に、僕達はそういうとてつもないことをしてきました。

 人工林では、高密度で木が植えられます。そうすると、狭いので樹々は上へ上へまっすぐに伸び、木材に加工しやすくなるからです。ただ、高密度で木を植えると、栄養も日射も足りないので成長しにくくなって来ます。だから、間引いて一部の木だけを残し育てます。つまり間伐です。
 こうして発生した間伐材を使うことは、なんだか資源の有効利用で平和的なことみたいな雰囲気がありますが、果たしてそうでしょうか。いびつで気味が悪いと思えて仕方ありません。
 日本の林業を守ろう!みたいな動き、若者が林業に就業するのが平和的でいいことだ、みたいなイメージも、僕にはなんだか気味が悪いです。木が可愛そうだなと思います。

 手入れのないために荒廃した森林は、もっとどんどん荒廃して、自然な状態に戻ればいい。人間の手入れなんて要らない状態に戻ればいい。

 鹿が増えすぎているから駆除しなくてはならない、というのも、本当に人間の勝手だと思います。畑の作物は柵でもして守ってほしい。増えすぎだからと正当化して、鹿を撃ち殺さないでほしい。その理由はただのまやかしだ。しかも殺した鹿は食べもされず、ゴミとして効率的な処理の方法まで開発して。あまりにも自然に対する敬意がなさすぎると思う。

 最近、山の方に良くいるので、漫然と思うことを書き留めました。