書評:『ソーシャル・デザイン』グリーンズ編

ソーシャルデザイン (アイデアインク)
グリーンズ編
朝日出版社

 ソーシャルデザインというのは、なんとなく胡散臭い言葉ですね。
 僕にはデザイン業界の友達もいるし、そもそも父がデザイン業界の人間なので、デザインというものを否定するのは心苦しいのですが、デザインというものに対してかなり複雑な気持ちを持っていることは否めません。

 今回は本のことよりも、ソーシャル・デザインということに対する批判になるかと思います。

 僕はプロダクトデザイナーになりたいと思っていた時期があって、その頃は結構「デザイン万歳!」でしたし、たとえばアフォーダンスの高い製品は優れていると単純に思っていました。
 アフォーダンスが高いというのは、その製品を見ただけで使い方が自然に分かるというような意味です。大抵の椅子は見ただけで「これは座るものだ」と分かり、さらに座り方まで分かるのでアフォーダンスが高いと言えます。逆にギターは何の知識も持たない人には全然使い方が分かりません。そういうのはアフォーダンスが低いということになります。

 一見、アフォーダンスが高い製品の方が優れているように見えるのですが、今はそうはあまり思っていません。
 なんというか、デザイナーがユーザーを誘導するということに対して少し抵抗があります。「ユーザーが自然にこういう風に使うように」という意図がなんだか嫌です。そういう意図が見えないように丁寧にデザインされていたり。
 じゃあ使い難いものを作ればいいのかというと、そういうことでもないので、なんだか複雑な気分で向き合わざるを得ないということになっています。
 それはグラフィックでもプロダクトでも建築でも、もちろんソーシャルでも、どのデザイン分野でも同じです。

 さて本書『ソーシャル・デザイン』はタイトル通り、ソーシャル・デザインの本です。基本的には色々な事例を紹介するカタログのような感じになっています。
 先ほども書きましたように、僕は「複雑な」気分で読む事になるのですが、紹介されている事例はまあ良くできてるような気もしなくはないアイデアばかりです。
 だいたいは各章のタイトルで想像が付くと思うので、目次を先に紹介します。
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 はじめに

 第1章 「自分ごと」から始める

 おばあちゃんを指名してカスタムメイドするニットブランド 「ゴールデン・フック」
 「うわさ」の力で街を賑やかにするアートイベント 「八戸のうわさ」
 公共空間は最高の結婚式場 「ハッピー・アウトドア・ウエディング」
 バルセロナに住む人々に風船で 「ありがとう」を届けた男
 タバコの代わりにシャボン玉を一服する 「東京シャボン玉倶楽部」
 [ソーシャルデザインTIPS1]社会的課題を「自分ごと化」する
 [ソーシャルデザインTIPS2]ホリスティックに状況を捉える
 [ソーシャルデザインな人1]井上英之:
 自分のやりたいことにすぐ火をつける「マイプロジェクト」

 第2章 「これからの○○」をつくる

 スピードを「守った」人に宝くじが当たる 「スピード・カメラ・ロッタリー」 
 究極の環境PR。1枚のチラシで28万人にプロモーションした2匹のパンダ
 街ぐるみでオープンな子育てを実践する 「まちの保育園」
 秋田のイケメン若手農家が挑戦するソーシャルな農業 「トラ男」
 まちのお母さんがシェフになって地域を温かくする 「タウンキッチン」
 [ソーシャルデザインTIPS3]「これからの◯◯」を想像する
 [ソーシャルデザインTIPS4]一石二鳥以上のグッドアイデアを考える
 [ソーシャルデザインな人2]山口絵理子:
 作る人と買う人の両方を幸せにする「これからのビジネス」

 第3章 行動をデザインする

 マイカップ持参でポイントをシェアする 「カルマ・カップ」
 街が一変するデザインで投票率を上げた 「KOTOBUKI選挙へ行こうキャンペーン」
 街行く人々が素敵なメッセージを発信する 「セイ・サムシング・ナイス」
 途上国の電力不足を解決する自家発電型サッカーボール 「ソケット」
 みんなのちょっとしたアイデアで街を作る 「ギブ・ア・ミニット」
 [ソーシャルデザインTIPS5]思いつきをカタチにする
 [ソーシャルデザインTIPS6]雨ニモ負ケズ、プロトタイプを繰り返す
 [ソーシャルデザインな人3]山崎亮:
 自分たちの意志で踊る 「これからのコミュニティ」

 第4章 「新しいあたりまえ」になる

 「生まれ変わる」ための復興プロジェクト「石巻2.0」
 共同購入ソーラーパネルを割安で導入できる「1BOG」
 住民が読みたい記事に出資するローカル・ジャーナリズム「スポット・アス」
 一夜のうちに荒れ地が楽園になる「ゲリラ・ガーデニング
 「オリガミ×モッタイナイ」文化から生まれた「四万十川新聞バッグ」
 一枚のワンピースを着回してインドの貧困を救う「ユニフォーム・プロジェクト」
 [ソーシャルデザインTIPS7]座右の「問い」で自分を振り返る

 おわりに
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 うーん。
 どういう風に説明すればこのムズムズする感じが伝わるでしょうか。
 なんか、とってつけたような感じがしてしまうのです。
 たぶん、この目次を読まれて既に僕と同じようなムズムズを感じておられる方もいらっしゃると思います。

 ちょっと具体的に見てみますと、トップバッター、

《 おばあちゃんを指名してカスタムメイドするニットブランド 「ゴールデン・フック」 》

 ですが、
 これは、することがなくて暇な、しかし編み物のスキルを持ったおばあちゃん達を集めて、その誰かを好きに指名して編み物を作ってもらうというのはどうだろう、というサービスです。商品を買った後、そのおばあさんにメッセージを送ることもできます。孫くらいの年齢の人に自分の編んだものを買ってもらえると、おばあさんも嬉しい、ということらしいです。

 ウェブサイトにはおばあさんたちのプロフィールが並べられていて、

「彼女たちは、ひとときあなたのおばあちゃんになります。おばあちゃんへの感謝のメッセージを忘れないでね」

 と書かれているそうです。
 23ページには、このようなことも書かれています。

《商品が売れれば売れるほど、おばあちゃんのもとには「ありがとう」のメッセージが世界中から届き、「私は誰かに必要とされているんだ」という、生きがいを感じることができる。》

 素晴らしい!
 のですかね。。。

 「なめてんのか」と思うのは僕の心がひねくれているせいでしょうか。
 なんだか良くわからないんです。こういうのが。
 きっと、実際にこのサービスで助かっている人もたくさんいるのだと思います。
 でも、ここで使われている「生きがい」という言葉も、「ありがとう」も全部が空々しいような気が、僕にはどうしてもそのような感覚が無視出来ません。

 ソーシャル・デザインというものは、残念ながら本質を外しているのではないでしょうか。本当にダイレクトに生で人との関わりを持てばいいのに、それはできないと思い込んで、例えば間に商品と貨幣を置いて媒介にしているわけです。あるいは生身で人と関わるのがイヤなので、そのかわりにこういうサービスでお茶をにごしているように、なんか言い訳みたいに見えます。

 ちょっと話がずれますが、「みんなが集まれる店を作りたい」とか、あれってなんですかね。ソーシャルなんとかって。もともと店って普通にみんなが集まる所じゃないんですか。どうしてわざわざ「ここは開かれていてみんなが集まる場所です」という看板が必要なんですか?
 これに関しては友人がとても上手な表現をしています。彼曰く、

「ソーシャル(なんとか)はラブ(ホテル)と一緒だよ。」

 別にラブホテルでなくても、カップルで泊まればセックスくらいするので、どこだって言い様によっては全部ラブホテルなわけです。僕は子供の頃に家族でラブホテルに泊まったことがあるのですが、そのときはラブホテルだって普通のホテルなわけです。
 つまり、ラブホテルであるか只のホテルであるかというのは、施設の問題であるよりも利用者の問題です。 
 
 ソーシャルなんとかだって、これと同じ事です。
 ソーシャルなカフェに「ソーシャルさ」があるわけではなく、その利用者の方に「ソーシャルさ」が(ある/ない)わけです。
 そんなの当たり前のことです。
 「商店街の八百屋さん」じゃないと会話できないんですか?
 ローソンの店員とは世間話できないですか?

 僕達は社会に暮らしているので、当然のようにその隅々までがソーシャルです。
 散歩してもソーシャル散歩です。
 散歩の途中におばあさんに出会ったら挨拶して世間話して構いません。
 ネットでどこかの国の知らないおばあさんをカタログから選んで編み物買ったりしなくても、それで十分です。

 ラーメンズ小林賢太郎が「折りたたみ傘? 折りたためない傘って、あるか?」と言っていますが、これに習えば「ソーシャル・デザイン? ソーシャルじゃないデザインって、あるか?」です。
 ちょっと意図的に「ソーシャルなデザイン」と「ソーシャルをデザイン」を一緒くたにしていますが、このままもっと云えば「社会にソーシャルじゃないものってあるか?」です。「社会に社会じゃないものってあるか?」

 「あるか?」と書きましたが、実はあります。
 あることになっています。
 エレベーターに単に乗り合わせたからとか、カフェで隣の席に座ったからといって、そんな理由で気軽に人に話しかけてはいけないという暗黙のルールのようなものが社会には満ちています。気軽に人に話しかけると変人だと思われます。さっき、散歩の途中でおばあさんに話しかけてもいい、と書きましたが、これは僕がそう思うだけで、もしかしたら「社会的」にはOKではないのかもしれません。

 僕達の社会には「本質から目を逸らして、この中だけで考えてればいいんだよ、キミらは」という横暴な、しかし頭脳負荷を軽減してくれるという意味で魅惑のラインが至る所に引かれています。
 原発問題を「廃炉かどうか」だけフィーチャーして、システム全体のことは考えないことになっていたりします。
 だから僕は声高な、わざわざな「ソーシャル」という言葉を聞くと、その外のことが気になって仕方ありません。僕達はわざわざこんなこと言わなきゃならない時代を生きているのでしょうか。
ソーシャルデザイン (アイデアインク)
グリーンズ編
朝日出版社