書評:『働かざるもの、飢えるべからず。』小飼弾

働かざるもの、飢えるべからず。 だれのものでもない社会で、だれもが自由に生きる――社会システム2.0 (サンガ新書)
小飼弾
サンガ

 前々回、岡田斗司夫さんと小飼弾さんとの対談『未来改造のススメ』を紹介しました。
 基本的にはベーシック・インカムの本として読める、と書きましたが、良く考えてみれば僕がはじめてベーシック・インカムという言葉を知ったのは小飼さんのどこかでの発言からではないかと思います。
 そこで今度は小飼さんの、もっとストレートにベーシック・インカムを扱った本『働かざるもの、飢えるべからず。』を読みました。

 副題は"ベーシック・インカムと社会相続で作り出す「痛くない社会」"です。
 この「社会相続」というのは、相続税100%のことを指しています。
 現在、日本の年間死亡者数は110万人で、その方々が残す遺産は80兆円。現状ではこれは遺族が相続するのですが、相続税を100%、つまり社会全体が相続するという形に変えると、ベーシック・インカムとして全国民に毎月5万円のお金を配ることができます。
 さらに高齢化が進んでいくので、2020年には年間に発生する遺産は109兆円になることが予測されています。

 ベーシック・インカムについて、いくつか大きな疑問があったのですが、その一つがやっぱり財源で、この相続税を100%にしてそれを充てるというのは、結構すっきりとした解だと思いました。
 ちなみに、僕がベーシック・インカムに対して持っている一番大きな疑問は「医療大丈夫かな」です。
 端的にいうと十分な医療従事者がキープ(今も足りていませんが)できるのだろうかという心配があります。それに関してはもう少し考えて行きたいと思います。

 さて、本書では冒頭でちょっとしたクイズが出されているのですが、これを読んだ時に僕は少し嬉しい気分がしました。多分小飼さんのベーシック・インカムに対する考え方の大本は僕のと同じだと思ったからです。
 一口にベーシック・インカムと言っても、その根拠は人によって違います。たとえば基本的人権などを持ち出す方もいますが、僕はそれは良く理解できません。僕のはもっと単に理屈で考えて社会を最適化しようと思ったらベーシック・インカムが最適解であるというものです。最適解なのに社会を覆っている「労働信仰」がベーシック・インカムの実現を邪魔しているなと思っています。
 本書の冒頭で小飼さんはこの「労働信仰」をいきなりブチ壊します。

《 はじめにクイズです。

  コメを作っているのは誰でしょうか? 農家でしょうか?

  ちがいます。答えは、イネです。

  農家の方には申し訳ないのですが、これは事実です。農家はなにも作っていないのです。作っているのはあくまでイネ、トウモロコシ、コムギ、ダイズといった植物であって、人はそのお膳立てをしているにすぎません。漁業にいたっては、そのお膳立てさえせず、「生産」のいっさいを海にゆだねています。

  人というのは生きていくのに必要なものをいっさい作っていません。作るのはあくまで植物であり、環境であり、自然であって、人はその上前をかすめているだけです。 》

 弾さんはこのあと、僕達は地球に寄生しているのだと書かれています。
 僕もそう思っています。

 これはベーシック・インカムの考えを知るずっと以前のことですが、あるとき僕はハッとしました。
 ほとんどの仕事と呼ばれるものは、はっきり言ってどうでもいいようなことではないかと、少なくとも死にそうな顔でするものではないだろうと。楽しくてしてるならわかるけれど、苦しんで義務感にかられてするようなことではないだろうと。
 だって、農業以外なんか必要ですか?
 マイナーチェンジしたシャンプーの匂いを決める為のプレゼン作成で胃潰瘍になってどうすんだって思います。それで「ボロボロになってまで働く私は偉い」とか、アホじゃないのと思います。そんなことどうでもいいじゃないですか?
 これが、楽しいことなら、楽しくてしていることなら別にいいです。でも死にそうな顔でやってどうするんだと思います。クビになったら生活できないからと、したくもないことを悲壮な状態でやり続けるしかない社会がとても嫌いです。
 だって、食べ物も家も余ってるじゃないですか。そして仕事は足りていない。
 これが意味しているのがどういうことかは、明確です。
 もう僕達は全員が労働する必要ないんです、というか、全員が無理矢理働くことがどうでもいい仕事の為の仕事を生み出して、社会を住みにくいものにしています。
 夢見られていた未来では労働はロボットが全部やって人間は遊んでいるだけですね。SF的には。
 僕達のこの世界は既にその手前まで来ているんです。
 だから全員が働くのはかなり無理がある。
 そして働かないなら飢えて死ねというのはもっと無理がある。

 これは僕が貧乏だから言っているわけではありません。
 ビル・ゲイツみたいな大富豪でもベーシック・インカムに賛成しています。
 僕はただ単に合理的でないことが嫌いなんです。
 十分に資源があるのに、それが大いに偏ることで、まるで何かが不足しているように見えて人々が苦しむ世界が嫌なんです。
 せっかく人類の叡智がここまでやって来ているのに、先人たちの努力が、遺産が、宝物が目の前にポンと置かれているのに、それが見えないで日々の苦しみに追われている人々を見るのが嫌なんです。
 イヤなことをするのが良いことだ、みたいに人々が思い込んでいることが嫌なんです。

 僕みたいな怠け者が「ベーシック・インカム」と言うと、バカな怠け者がなんか言ってるとなって終わるのかもしれません。
 でも、もしも本当に僕達人類のテクノロジーが人類を労働から開放可能だとして、それでみんなが働きたくないのであれば、それでみんなが働かなくて良い世界を作ってしまって何か問題があるのでしょうか。
 なんか堕落している感じがするから駄目なんでしょうか?
 みんなが楽しくハッピーになることを、実は僕達は恐れているような感じがするのですか、それは何故なのでしょうか?

 この本の後半は、スリランカ出身の僧侶アルボムッレ・スマナサーラさんとの対談になっています。
 最初は「あれ?」と思いました。
 別にベーシック・インカムとは関係がないように見えたからです。
 でも、スマナサーラさんの語る実用的な仏教は、その帰結してベーシック・インカムに近いものを導出しているようでした。
 実用的な仏教と書きましたが、本来仏教は実用的な理屈で構成されたもので、現代日本にはびこっている大乗仏教はあまり本来の仏教とは関係ないようです。

 昨日の記事に僕は「京都って本当にザ・ジャパンだろうか?中国の真似でしょ。仏教だってインドから中国経由で入ってきたものに過ぎない」というようなことを書きましたが、この対談で面白い話が出て来ました。
 土着の宗教というものは本来輸出できるものではありません。たとえば日本の神道は輸出できないし、日本でしか文化的にも生き延びることができない。インドのヒンズー教だって同じです。ところが、仏教というのは人類のことを普遍的に考えて考えて出来たものなので、あらゆる時代のあらゆる地域で通用する。だから仏教のパッケージを使えばローカルな宗教をグローバルに輸出可能になる。そうしてヒンズー教仏教パッケージに入って輸出されて日本に入ってきた。だからあれは仏教というかヒンズー教です。みたいな話です。
 これはとても面白い話ですね。
 実際に日本に入ってきた仏教にはナントカ明王とナントカ菩薩とか、色々なカミサマがいます。それらは別に本来の仏教には一切関係ありません。日本のお寺の大体はヒンズー教のお寺ということで落ち着きます。
 僕は基本的には合理的なことが好きなので、つまりは本来的な意味で仏教徒に近いと思うので、日本のお寺で祈ったりはしません。
 諺に「情けは人の為ならず」というのがありますが、あれは「人にいいことをしてあげたら周り回って自分に帰ってくる」みたいな意味の言葉です。僕はもともと諺にが嫌いですし、この諺も好きではありませんが、でも、仏教というのは本当はこういう話です。社会全体がもっと幸福になるために合理的に物事を考えたらこういう教えができた、というのが仏教です。祈祷とか坐禅とかとはあんまり関係ないですね。

 2500年前の天才思想家が生み出した叡智と、現代の天才プログラマが「社会の最適化」を考えたときにだいたいベーシック・インカム(ベーシック・ニーズ)で合意しているのは、とても説得力のあることではないでしょうか。
働かざるもの、飢えるべからず。 だれのものでもない社会で、だれもが自由に生きる――社会システム2.0 (サンガ新書)
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