ずっとわからないこと
何度か似たようなことを書いていて、でも本質は上手に書けていなくて、最近またそのことを強く感じていて、でも今回も上手く書けるかどうか分からない、あることを書きます。
それは僕が結構長い間抱えている疑問です。
「みんな、どれくらい本当にそう思っているのだろう」
というのが、その疑問です。
たとえば、あるお店に行ってある商品に「お薦め!」と書かれていたとします。
でも、この「お薦め」は多分、本当の「お薦め」ではなくて、仕入れすぎたとか、業者に頼まれたとか、なんだか知らないけれど、「とある別の理由によって」書かれている「お薦め」なのだと思います。
平たく言うとウソということです。
言葉の意味と言葉が乖離しています。
しばらく前に、「会社から強制的に、とあるセミナーを受けに行かされた」という話を聞きました。それはビジネスに、いや人生のあらゆることに有益であるとされている、とあるスキルのようなものを身につける為のセミナーということでした。「アホみたいなんだけど、プッ」と言いながらテキストを見せてもらって、内容のアホさ故に僕も一瞥して吹き出したあとに、悲しいような怖いような複雑な気分になりました。
そのセミナーは受けに来ている人の多くが「アホみたい」と思っていて、でも会社が行けと言っているので仕方なく参加しているわけです。その会社はちょっとびっくりするようなお金をそのセミナーに払っているようなのです。会社の中で意思決定をする人の何人がそのセミナーに価値を見出していたのかは知りませんが、まず僕はある会社の、ある決定権を持った人がそのセミナーの効用を信じてい大金を払っているということが腑に落ちませんでした。
一番気になっているのが、セミナー講師の人が本気でそのセミナーを開いているのか、それともお金の為にやっているだけなのか、ということです。当たり前のことですが、その講師はとても熱心にテキストを作り、熱心にセミナーを開いているように見えるわけです。でも彼が本当の本当に本気だとはなかなか信じがたいわけです。なぜなら内容が極めて下らないからです。
本気なのだとしたら、こんな下らないことを本気でやっている人がいるということが、お前は何様のつもりだと言われても、悲しいし嫌だと思います。もしも、内心では「馬鹿みたい」と思いながらお金の為にやっているのだとしたら、それも人を喰ったようで嫌だと思う。
こういうことが、いつもとても気になっています。
子供の頃、体育の授業で「前に倣え」と号令を掛けて、「もっと手をピンと伸ばしなさい」とか注意していた教師は、あれは本気でああいうことを言っていたのだろうか。それとも、なんか馬鹿みたいなことだけど、教師というのはこういう馬鹿みたいなこと言う仕事のようだからとりあえず言っておくか、とか思っていたのか、一体どっちなのでしょうか。
コンビニの店員が言う「いらっしゃいませ」は、本当に「いらっしゃいませ」と思って言っているわけではないし、別に言わなくていいんじゃないのかな、という話をしていたら、「なんにも知らないんだね、あれは、あなたが入ってきたということをこちらは認識しているということを示す防犯の為のものなんだよ、万引きとかしにくくなるように」と、ウソか本当か分からないことを教えてもらったことがあります。
どちらにしても「いらっしゃいませ」は、いらっしゃいませではないわけです。
昔、広告業界というのはカッコイイと思っていた頃がありました。
うんうん、クライアントの要望に応じて、なんでもない製品でも素晴らしい製品のように人々に見せる、その方法をクリエイティブに考える。クール!
とか思っていました。
今は嫌ったらしくて広告なんて見られません。
特に、あの「うまく考えたなー」と唸らされるコピーの嫌ったらしさときたら。
本当は誰もいいと思っていないのに、でもコストだとか「なんらかの事情」によってそう作られてしまった物達。
とりあえず口にされる言葉。
邪魔なだけなのにエクスキューズの為に配置されている交通整理。
おかしいとみんなが思っているのに「なんらかの事情」で進められていく工事。
なんでこんな全部の商品に最高級って書いてあるんだ。
今回も支離滅裂なほとんど箇条書きの悪口みたいになっていますが、僕は本当にみんなが何を考えて「それをしているのか」本当に分からなくて、時々堪らなく怖くなるのです。本当にそう思ってそれをしているのか、それとも何かの強制力が働いていてイヤイヤやっているのか、何かの言い訳としてそれをしているのか、なんとも全然わからないのです。言葉も行動も。こんなにたくさんある訳の分からないことを、みんな本当に真剣に心からそうしているのでしょうか。
それは僕が結構長い間抱えている疑問です。
「みんな、どれくらい本当にそう思っているのだろう」
というのが、その疑問です。
たとえば、あるお店に行ってある商品に「お薦め!」と書かれていたとします。
でも、この「お薦め」は多分、本当の「お薦め」ではなくて、仕入れすぎたとか、業者に頼まれたとか、なんだか知らないけれど、「とある別の理由によって」書かれている「お薦め」なのだと思います。
平たく言うとウソということです。
言葉の意味と言葉が乖離しています。
しばらく前に、「会社から強制的に、とあるセミナーを受けに行かされた」という話を聞きました。それはビジネスに、いや人生のあらゆることに有益であるとされている、とあるスキルのようなものを身につける為のセミナーということでした。「アホみたいなんだけど、プッ」と言いながらテキストを見せてもらって、内容のアホさ故に僕も一瞥して吹き出したあとに、悲しいような怖いような複雑な気分になりました。
そのセミナーは受けに来ている人の多くが「アホみたい」と思っていて、でも会社が行けと言っているので仕方なく参加しているわけです。その会社はちょっとびっくりするようなお金をそのセミナーに払っているようなのです。会社の中で意思決定をする人の何人がそのセミナーに価値を見出していたのかは知りませんが、まず僕はある会社の、ある決定権を持った人がそのセミナーの効用を信じてい大金を払っているということが腑に落ちませんでした。
一番気になっているのが、セミナー講師の人が本気でそのセミナーを開いているのか、それともお金の為にやっているだけなのか、ということです。当たり前のことですが、その講師はとても熱心にテキストを作り、熱心にセミナーを開いているように見えるわけです。でも彼が本当の本当に本気だとはなかなか信じがたいわけです。なぜなら内容が極めて下らないからです。
本気なのだとしたら、こんな下らないことを本気でやっている人がいるということが、お前は何様のつもりだと言われても、悲しいし嫌だと思います。もしも、内心では「馬鹿みたい」と思いながらお金の為にやっているのだとしたら、それも人を喰ったようで嫌だと思う。
こういうことが、いつもとても気になっています。
子供の頃、体育の授業で「前に倣え」と号令を掛けて、「もっと手をピンと伸ばしなさい」とか注意していた教師は、あれは本気でああいうことを言っていたのだろうか。それとも、なんか馬鹿みたいなことだけど、教師というのはこういう馬鹿みたいなこと言う仕事のようだからとりあえず言っておくか、とか思っていたのか、一体どっちなのでしょうか。
コンビニの店員が言う「いらっしゃいませ」は、本当に「いらっしゃいませ」と思って言っているわけではないし、別に言わなくていいんじゃないのかな、という話をしていたら、「なんにも知らないんだね、あれは、あなたが入ってきたということをこちらは認識しているということを示す防犯の為のものなんだよ、万引きとかしにくくなるように」と、ウソか本当か分からないことを教えてもらったことがあります。
どちらにしても「いらっしゃいませ」は、いらっしゃいませではないわけです。
昔、広告業界というのはカッコイイと思っていた頃がありました。
うんうん、クライアントの要望に応じて、なんでもない製品でも素晴らしい製品のように人々に見せる、その方法をクリエイティブに考える。クール!
とか思っていました。
今は嫌ったらしくて広告なんて見られません。
特に、あの「うまく考えたなー」と唸らされるコピーの嫌ったらしさときたら。
本当は誰もいいと思っていないのに、でもコストだとか「なんらかの事情」によってそう作られてしまった物達。
とりあえず口にされる言葉。
邪魔なだけなのにエクスキューズの為に配置されている交通整理。
おかしいとみんなが思っているのに「なんらかの事情」で進められていく工事。
なんでこんな全部の商品に最高級って書いてあるんだ。
今回も支離滅裂なほとんど箇条書きの悪口みたいになっていますが、僕は本当にみんなが何を考えて「それをしているのか」本当に分からなくて、時々堪らなく怖くなるのです。本当にそう思ってそれをしているのか、それとも何かの強制力が働いていてイヤイヤやっているのか、何かの言い訳としてそれをしているのか、なんとも全然わからないのです。言葉も行動も。こんなにたくさんある訳の分からないことを、みんな本当に真剣に心からそうしているのでしょうか。