新しい生活。
坪庭の上に設けた、手すりも柵もない開放的な通路に腰掛け、背後の土壁にもたれた僕達は、その庭向こうで談笑する友人達の様子を眺めていた。古く古く薄暗い日本家屋の二階に、彼らの部屋から笑い声と白熱電灯の光が届く。光景は古い梁と引き戸をフレームとしていて、その中で話す彼らを、高く暗い場所から見るのはなんだか不思議な気持ちがした。
「まるで死んでしまった後に、幽霊になって友達を見ている気分だよ」と僕が言うと、「友達というのはこういうことだよな。みんなが楽しそうにしてるのを見ているだけで本当に幸せな気分になる」と、いつもおどけてばかりの男が呟いた。酔いと、誰もが母国語ではない言葉で話していたせいだろう。
そして、僕はホームという言葉の意味を思う。
物事の記録を残さない、という悪い癖が僕にはある。いや、別に悪いことではないんじゃないの?という、良し悪しのより丁寧な判断を求める人がいるかもしれないけれど、僕がいつも後になって記録を残しておけば良かったな、と後悔するにも関わらず、という一文を加えておけば”悪い”ということにしておいてもらえるだろうか。
とにかく、僕にはそういう悪い癖があって、あの時の事も、この時の事も、記録に残っていない。写真も動画もほとんどないし、日記もあまり付けていない。それはそれで構わない、という態度は、これまで僕がずっと取ってきたもので、それはそれで良く理解できるのだけど、これからはもう少し記録を残していこうと思う。写真はやっぱりあまり撮らないままになるかもしれない。せめて、自分が体験したことと、その上で思ったことを、公開できる範囲で書き留めておきたいと思う。
その記録としてのブログ記事の一つ目がこの文章ということになる。
僕はこの4月から西陣にある「土間ハウス」という家に住み、ハンガリー人、ドイツ人、日本人の計6人で暮らし始めた。この3週間の間に、本当に様々なことが起こった。3週間がまるで3ヶ月かのように感じられる。
6人でシェア生活なんてしているのだから、僕の性格を、それなりにオープンで屈託のないものなのだろうと思われるかもしれない。でも、僕はどちらかというとそれほどオープンマインデッドでもないし、人との間に壁を作り易い性格をしている。なのにどうしてここに住み始めたのか、という説明は別の機会に回すとして、ここには「実は昨日やっと、ここはホームだ、という気持ちになった」ということを書き留めておきたい。そして、これに関しても、詳細は別の機会に回すとして、今日はトイレのことを書いて終わりたいと思う。記録的性質を帯びた、土間ハウス生活を開始してから第一回目の記事がトイレの話というのはなんとも間の抜けたことに違いないけれど、この3週間で結構トイレのことを考えたので書きたいと思う。
さて、これもまた、なんとも間の抜けた話ではあるけれど、僕達の都市にはトイレが必要だ。現代人の生活には、人生には、トイレが必要であり、それは都市部に限らず結構な田舎へ行ったって同じことだ。
僕はトイレにそれなりの快適さを要求するので、これまでトイレが共用のアパートや住居に住んだことはなかった。それが、今回は共同のトイレで、しかもいかにも古い家らしく、トイレは裏庭の小屋として存在している。ドアはペラペラの若干朽ちた木の板で、足元も上部も空いている。天気の良い日には、その前にテーブルを出してご飯を食べている人もいる。そんな時に平気でトイレを済ませる逞しさを、僕は(今のところまだ)持ち合わせていない。
もちろん、いつも庭に誰かがいるわけではないのだけど、通常のトイレに比べて、比較的、開放的なそのトイレのお陰で、最初の4,5日間は排泄のリズムが完全に狂ったままだった。加えて、僕は今特定の場所に毎日通うという生活をしていないので、自宅のではない第二のトイレというものも持ちあわせてはいない。
というわけで、公衆トイレの重要さをその数日の間に思い知った。これも軟弱なことに、用がたせればどんなトイレでも良い、というわけではないので、綺麗な公衆トイレがいかにありがたい存在かを思い知り、そして僕は旅の途上におけるトイレという問題に初めて思い至った。僕はこれまで長期的な旅に出たことがなくて、長期的な旅をいうものを空想しても、長いから疲れが溜まるだろうなとぼんやり思うだけだった。でも実際のところ、特に異国の地で、必要に応じて必要なタイミングでトイレを見つけながら移動するのは随分面倒なことに違いない。
人間という生き物は、ある時間が経過すると排泄せねばならないというタイマーと共に生きている。タイマーの長さは時と場合によって変化するし、各自がそれぞれのタイミングでトイレに行くのが最も自然なはずだけど、僕達が社会生活をはじめる、本当にその始まりである小学校において、すでに僕達はトイレに行く時間を管理される。基本的には授業中はトイレに行かず、排泄は休み時間に済ませておくことになっている。冷静に考えてみると、何百人、千人という子供が集められている空間で、授業の時間帯には誰一人トイレに行かないというのは驚くべき不自然さではないだろうか。確かに、好き勝手にいつでもトイレに行かれては授業も何もあったものではないのかもしれないし、善悪のことを言うわけではないのだけど、1000人くらいの子供が集められた空間において誰もトイレに行かない時間帯が大部分を占めていて、さらにそういった学校が日本中にたくさんあるのだと思うと、なんだかとても奇妙な気分になる。
「まるで死んでしまった後に、幽霊になって友達を見ている気分だよ」と僕が言うと、「友達というのはこういうことだよな。みんなが楽しそうにしてるのを見ているだけで本当に幸せな気分になる」と、いつもおどけてばかりの男が呟いた。酔いと、誰もが母国語ではない言葉で話していたせいだろう。
そして、僕はホームという言葉の意味を思う。
物事の記録を残さない、という悪い癖が僕にはある。いや、別に悪いことではないんじゃないの?という、良し悪しのより丁寧な判断を求める人がいるかもしれないけれど、僕がいつも後になって記録を残しておけば良かったな、と後悔するにも関わらず、という一文を加えておけば”悪い”ということにしておいてもらえるだろうか。
とにかく、僕にはそういう悪い癖があって、あの時の事も、この時の事も、記録に残っていない。写真も動画もほとんどないし、日記もあまり付けていない。それはそれで構わない、という態度は、これまで僕がずっと取ってきたもので、それはそれで良く理解できるのだけど、これからはもう少し記録を残していこうと思う。写真はやっぱりあまり撮らないままになるかもしれない。せめて、自分が体験したことと、その上で思ったことを、公開できる範囲で書き留めておきたいと思う。
その記録としてのブログ記事の一つ目がこの文章ということになる。
僕はこの4月から西陣にある「土間ハウス」という家に住み、ハンガリー人、ドイツ人、日本人の計6人で暮らし始めた。この3週間の間に、本当に様々なことが起こった。3週間がまるで3ヶ月かのように感じられる。
6人でシェア生活なんてしているのだから、僕の性格を、それなりにオープンで屈託のないものなのだろうと思われるかもしれない。でも、僕はどちらかというとそれほどオープンマインデッドでもないし、人との間に壁を作り易い性格をしている。なのにどうしてここに住み始めたのか、という説明は別の機会に回すとして、ここには「実は昨日やっと、ここはホームだ、という気持ちになった」ということを書き留めておきたい。そして、これに関しても、詳細は別の機会に回すとして、今日はトイレのことを書いて終わりたいと思う。記録的性質を帯びた、土間ハウス生活を開始してから第一回目の記事がトイレの話というのはなんとも間の抜けたことに違いないけれど、この3週間で結構トイレのことを考えたので書きたいと思う。
さて、これもまた、なんとも間の抜けた話ではあるけれど、僕達の都市にはトイレが必要だ。現代人の生活には、人生には、トイレが必要であり、それは都市部に限らず結構な田舎へ行ったって同じことだ。
僕はトイレにそれなりの快適さを要求するので、これまでトイレが共用のアパートや住居に住んだことはなかった。それが、今回は共同のトイレで、しかもいかにも古い家らしく、トイレは裏庭の小屋として存在している。ドアはペラペラの若干朽ちた木の板で、足元も上部も空いている。天気の良い日には、その前にテーブルを出してご飯を食べている人もいる。そんな時に平気でトイレを済ませる逞しさを、僕は(今のところまだ)持ち合わせていない。
もちろん、いつも庭に誰かがいるわけではないのだけど、通常のトイレに比べて、比較的、開放的なそのトイレのお陰で、最初の4,5日間は排泄のリズムが完全に狂ったままだった。加えて、僕は今特定の場所に毎日通うという生活をしていないので、自宅のではない第二のトイレというものも持ちあわせてはいない。
というわけで、公衆トイレの重要さをその数日の間に思い知った。これも軟弱なことに、用がたせればどんなトイレでも良い、というわけではないので、綺麗な公衆トイレがいかにありがたい存在かを思い知り、そして僕は旅の途上におけるトイレという問題に初めて思い至った。僕はこれまで長期的な旅に出たことがなくて、長期的な旅をいうものを空想しても、長いから疲れが溜まるだろうなとぼんやり思うだけだった。でも実際のところ、特に異国の地で、必要に応じて必要なタイミングでトイレを見つけながら移動するのは随分面倒なことに違いない。
人間という生き物は、ある時間が経過すると排泄せねばならないというタイマーと共に生きている。タイマーの長さは時と場合によって変化するし、各自がそれぞれのタイミングでトイレに行くのが最も自然なはずだけど、僕達が社会生活をはじめる、本当にその始まりである小学校において、すでに僕達はトイレに行く時間を管理される。基本的には授業中はトイレに行かず、排泄は休み時間に済ませておくことになっている。冷静に考えてみると、何百人、千人という子供が集められている空間で、授業の時間帯には誰一人トイレに行かないというのは驚くべき不自然さではないだろうか。確かに、好き勝手にいつでもトイレに行かれては授業も何もあったものではないのかもしれないし、善悪のことを言うわけではないのだけど、1000人くらいの子供が集められた空間において誰もトイレに行かない時間帯が大部分を占めていて、さらにそういった学校が日本中にたくさんあるのだと思うと、なんだかとても奇妙な気分になる。