ノルウェイの森とフロイトの悪魔

 年末に映画「ノルウェイの森」を見た。

 村上春樹さんの書いた原作、「ノルウェイの森」は1987年に日本で発売されてベストセラーになった作品だ。
 僕が読んだのは多分7,8年前で、どういう話だったのかぼんやりとしか覚えていない。

 村上隆さんは映画版のノルウェイの森を評して、ハイコンテクストなものすごい作品だ、ストーリーのことだけゴチャゴチャ言うだけの評論なんて聞く必要ない、というようなことを言っていたと思う。

 実は、僕にはこの映画自体の感想は別にない。
 まともに見たことのないヒッチコックの映画とアジア映画のミックスみたいだなとか、ワカナベ君というのはやけに円やかな名前だなとか、ぼんやり思った程度だ。もうどんな映画だったのかもあまり覚えていない。
 だから、映画の評論みたいなことは僕にはできない。

 かといって、さっきも書いたように原作もあまり覚えていないし原作と比較してどうこうということも言えない(言わなくていいと思うけれど)、つまり僕はノルウェイの森に関してあまり何も覚えていないということになる。

 ただ、映画を見ていて一つだけ思ったことがあります。

 劇中、精神を病んだ人達の入っている施設へ主人公ワタナベ君は足を運ぶ。心を病んだ恋人のナオコに会う為。ナオコはその施設でレイコさんという年上の女性患者と親しくしている。
 あるシーンで、ナオコとレイコさんは二人の間でしか通じない冗談を言って笑い、取り残されてきょとんとしているワタナベ君に向かってこう言います。

「忘れないで、私たち、普通じゃないの」

 そして、また二人で大笑いする。
 東京から京都の山奥まで遠路遥々やってきたワタナベ君に対して、それはないんじゃないだろうか。優劣ではなく、移動することができるか、人と会話ができるか、という二点において、ナオコはワタナベ君に負うところが大きい。それは彼女の弱さをワタナベ君がカバーしているということだ。その弱さを逆手に取り、こういった態度を取るのは非常な傲慢だと思う。僕なら部屋を出てもうこの人達には関わらないだろう。何度か似たような経験がある。

 僕は自分の「特殊さ」を殊更に強調してくる人が苦手だ。
 特殊であることが特殊であると思っている人と会話すると、話を全然聞いてもらえないのでとても疲れる。本当は特殊なことは普通のことだ。

 ナオコを見ていて、精神治療の施設で彼女が治療するものとは一体なんだろうと思った。
 その実体はなんだろうかと。

 僕もそれなりに長い間生きているので、何度か心を病んだ人に関わったことがある。”元気に”なった人も薬を飲み続けている人も死んだ人もいる。おかしな状況が発生して夜中に死体があるのではないかと思われる家に意を決しガラスを割って入ったこともある。

 そういうのを現代では「病気」に分類し、治療の対象と見なす。
 フーコーが「狂気の歴史」で論じたように、病気というカテゴライズの正当性を問うこともしかりだが、僕はここで別のことを言いたい。

 僕はここで「呪い」という言葉を使おうと思っている。
 これは病ではなく呪いだと思うのです。
 マジックな黒魔術的な呪いではなく、言葉を心に刻むという意味での呪い。
 たとえば僕は「この子は理系で大成功しますよ!」と小学生の時に言われたのがなんとなく忘れられなくて、それで物理学にしがみついている、という側面を多少は持っていると思う。
 良い悪いは別にして、ある言葉が長期的に人を縛るという点でこういうのは呪いだ。これを自分のドライビングフォースに変えるか、単なるピットホールだと見なすかは、呪いをかけられた人の自由で、そういう認識を持てた時点で呪いは解けたとも言える。だから僕の場合はもう解けている。

 さて、ノルウェイの森でナオコに呪いをかけたのは、自殺したかつての恋人キズキではありません。
 では誰かというと、フロイトです。

「えっ?この人は何を言ってるのだ」
 と思われるかもしれませんが、僕はナオコだけでなく、とても多くの現代人がフロイトの呪いに掛けられていると思っています。
 僕自信も含めて。

 それは例えばこういう形です。

「過去に起こったある出来事。あなたは忘れようとしているし、忘れたふりをしているけれど、でも無意識にはしっかりと刻まれている。その刻み込まれたものを忘れようとしたり、それに蓋をかぶせようなんてしても、そんなのは本当は無駄で、あなたはそれを明るいところへ持ってきて正面から克服しなくてはならない。キチンとその”心の傷””トラウマ”を癒さないと”本当には”幸せになれない」

 これって嘘じゃないかと僕は思っています。
 今から100年位前にフロイトが”発見”した「無意識」。
 あるいは彼が”発明”した「無意識」。
 僕達はそれに縛られているだけではないだろうか。
 本当に「意識できない無意識についた傷」なんてものがあって、「それを克服しなくてはならない」のだろうか。
 現代では当たり前に使われている無意識を僕達は疑わなくていいのだろうか。
 さらには、そういうものを完全に受け入れて「クヨクヨ悩むのが当然のことだし、それが人としての繊細さで、あっけらかんとしている人間よりちゃんと物事を考えているってことでエライんだ」みたいなルサンチマンに捻れた正当化があちらこちらで起こっていないだろうか。

 もちろん僕達は悲しんだり泣いたり寂しがったりする。
 でも、それを心の傷だと読み替えることに僕は抵抗がある。
 そして、それを治さなくてはならない、傷を癒さなくてはならない、という発想にも違和感がある。
 たぶんそれは”癒す”ことも可能だが、放ったまま幸福になることだって可能なのだ。ナオコは山奥の施設で存在しない傷が「治る」のをじっと待っていた。呪いに掛かっているとはそういうことだ。

 村上春樹が小説に”メッセージ"を込めているとは僕は考えない。
 けれど、もしもあるとしたら、彼の多くの小説から僕が読み取るのはそういうことだ。僕達は不幸も経験するが心の傷なんてものは本当はつかないしそのまま歩いて行ってまた笑うことができる、と。

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)
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精神分析入門 (上巻) (新潮文庫)
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