トリックスター、憂鬱を吹き飛ばす。
言葉で何か繊細なことを伝えるのは難しい。本当のところ、「私」というものは、あるいは「私」の思考というものは、言葉を通じても伝えることができないし、他のどんな手段を用いても伝えることはできないのかもしれない。
それは丁度、頭の良い、言葉を覚えたコウモリが、僕たちに「超音波で世界を見ると、どういうふうに見えるのか」を一生懸命に説明しているところに似ている。僕たちは想像力を働かせて、ある程度の理解はするだろう。でも、彼らが体験しているリアリティを本当に知ることはできない。
もしかしたら、もっと頭の良いコウモリが現れて、コウモリの見ている超音波の世界を3Dの映像にして見せてくれるかもしれない。しかし、残念ながら、それでも僕たちにはコウモリが見ている世界の実体は分からない。なぜなら、そのとき僕たちの体験するものは、あくまで「人間の視覚を通じた情報」しかも「音から映像に機械で一度変換された情報」だからだ。コウモリ達のように、自分の耳で聞いて脳で空間認識を組み立てるのとは何もかもが本質的に違っている。
つまり、僕たちがコウモリ達の世界を本当に知ろうと思うのであれば、それはもうコウモリになってみるしかない。
同じことが、人間の間でも言える。
もしも、本当に本当に「私」を「他者」に伝えたいのであれば、もう「他者」に「私」になってもらうしかない。
僕であれば、僕の「私」を完全に「他者」に理解してほしいのであれば、その他者に僕のこれまでの31年間を実際にやってもらうしかない。
もちろん、そんなのは到底無理な話だ。
ならば僕達は「本当の相互理解のない世界」を生きねばならない、と絶望するべきなんだろうか。
当たり前だけど、全然そんなことはない。
絶望というのは、ありとあらゆる場面で使う必要のない言葉だし、希望はいつでもどこにでもある。マクガイバーならどうするか想像してみればいい。
それどころか、「完全な相互理解」の成立する世界の方が、言うなればより絶望に近いかもしれない。
「私」を完全に理解してもらう為に、「他者」に私になってもらったとして、そんな理解が一体なんだというのだろう。
「他者」はもう「私」であって「他者」ではない。「私」を「私」に理解してもらうことに何か意味があるだろうか。それでは独り言を閉じた部屋の中でブツブツ言っているのと同じことだ。「他者」が「私」になってしまった「他者」不在の世界では、一切の外部と広がりがない。それこそ果てしなく孤独な世界だろう。
「他者」という「私」を絶対に理解しない存在に溢れたこの世界は、ちょっとめんどくさいかもしれない。
けれど、「他者」という「私」を理解できない存在のお陰で、僕たちは心豊かに生きていくことができる。「私」は「私の」ではなく「他者の」文脈で理解されねばならない。人は理解してくれないけれど、理解してくれない人がいるからこそ、僕たちはこの世界で暮らすのだ。
コミュニケーションというのは100%の理解ではなく数パーセントの「誤解」によって成立している。なんてトリッキーなこの世界。
それは丁度、頭の良い、言葉を覚えたコウモリが、僕たちに「超音波で世界を見ると、どういうふうに見えるのか」を一生懸命に説明しているところに似ている。僕たちは想像力を働かせて、ある程度の理解はするだろう。でも、彼らが体験しているリアリティを本当に知ることはできない。
もしかしたら、もっと頭の良いコウモリが現れて、コウモリの見ている超音波の世界を3Dの映像にして見せてくれるかもしれない。しかし、残念ながら、それでも僕たちにはコウモリが見ている世界の実体は分からない。なぜなら、そのとき僕たちの体験するものは、あくまで「人間の視覚を通じた情報」しかも「音から映像に機械で一度変換された情報」だからだ。コウモリ達のように、自分の耳で聞いて脳で空間認識を組み立てるのとは何もかもが本質的に違っている。
つまり、僕たちがコウモリ達の世界を本当に知ろうと思うのであれば、それはもうコウモリになってみるしかない。
同じことが、人間の間でも言える。
もしも、本当に本当に「私」を「他者」に伝えたいのであれば、もう「他者」に「私」になってもらうしかない。
僕であれば、僕の「私」を完全に「他者」に理解してほしいのであれば、その他者に僕のこれまでの31年間を実際にやってもらうしかない。
もちろん、そんなのは到底無理な話だ。
ならば僕達は「本当の相互理解のない世界」を生きねばならない、と絶望するべきなんだろうか。
当たり前だけど、全然そんなことはない。
絶望というのは、ありとあらゆる場面で使う必要のない言葉だし、希望はいつでもどこにでもある。マクガイバーならどうするか想像してみればいい。
それどころか、「完全な相互理解」の成立する世界の方が、言うなればより絶望に近いかもしれない。
「私」を完全に理解してもらう為に、「他者」に私になってもらったとして、そんな理解が一体なんだというのだろう。
「他者」はもう「私」であって「他者」ではない。「私」を「私」に理解してもらうことに何か意味があるだろうか。それでは独り言を閉じた部屋の中でブツブツ言っているのと同じことだ。「他者」が「私」になってしまった「他者」不在の世界では、一切の外部と広がりがない。それこそ果てしなく孤独な世界だろう。
「他者」という「私」を絶対に理解しない存在に溢れたこの世界は、ちょっとめんどくさいかもしれない。
けれど、「他者」という「私」を理解できない存在のお陰で、僕たちは心豊かに生きていくことができる。「私」は「私の」ではなく「他者の」文脈で理解されねばならない。人は理解してくれないけれど、理解してくれない人がいるからこそ、僕たちはこの世界で暮らすのだ。
コミュニケーションというのは100%の理解ではなく数パーセントの「誤解」によって成立している。なんてトリッキーなこの世界。
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