僕たちの戦争ごっこ。

 国籍が様々な僕たち12人がテーブルを占領して、これも国籍がバラバラな男達5人がカウンターに座ると、その小さくて暗いバーの中はもう満員だった。最後に入って来てカウンターに座った男はロシアからやって来た背の高いどこかもの悲しげな男だった。

 ほんの小さな声で歌を歌っているのはその男だ。

 ソファーの上にギターが置かれていたので、自然な成り行きで僕とGとSはギターを鳴らし、その小さすぎるギターではコードが上手く押さえられないので、手持ち無沙汰になった僕は沖縄音階を出鱈目に弾いた。それから沖縄の話、戦争の話、と自然な流れで政治のことを話している時、そのロシア人はカウンターから僕たちの席へ険しい顔でやって来た。

「今日、俺はここへ悲しいことがあったから飲みに来ている。まだロシアから来たばかりだ。ギターを鳴らして騒いだりするのはいいけれど、政治的な議論は聞きたくない。みんなこうして同じ店で飲んでいるんじゃないか」

 彼は僕たちがそれぞれどこの出身なのか聞き、僕たちはロシア1、フランス1、ペルー1、インドネシア1、ドイツ2、フィンランド2、韓国3、それから日本1だと答えた。
 すると彼はどうしたことか「是非歌を一曲歌いたいのだけど?」と言い、若干呆気に取られたものの僕たちは拍手でそれを迎えた。

 そして、短い悲しい歌だ、大体こんな意味合いだ、と前置きした後に彼は歌い出した。予期せずとても小さな声で、バーの中は全員がしんと聞き耳を立てた。僕の隣でSは失礼な笑い声を必死に噛み殺していた(後に、わざわざみんなの前で歌いたいと宣言したからには朗々と上手に歌えるのかと思っていた、とのこと)。それは確かに上手な歌ではなかったかもしれない、だけど、本当に悲しい響きの歌で、メロディは中東のものを彷彿とさせた。

 実際にその歌はトルコ語の歌だった。
 歌の後に、Sが「あなたはロシア人だと言ったけれど、今の歌はトルコ語よね?」と言うと、彼はロシアというか実はアゼルバイジャンから来てるんだけど、アゼルバイジャンって言っても誰も知らないと思って、と答え、

 「それより君はトルコ語を話すのか? 良く今のがトルコ語って分かったね」

 とSに聞き返した。

 「私はドイツ人だけど、私の街の50%はトルコ人だから、すこしだけ分かる」

 Sの返事に付け加えて、僕は「メルハバ」と知っている僅かなトルコ語で彼に改めて挨拶をした。

 ドイツにはトルコからやって来る移民がとても多い。僕はトルコにもドイツにも友達がいるけれど、この二つの国には切っても切れない関係と蟠りがある。Sの街では半数がドイツ人、半数がトルコ人だが、両者は全く混じり合う事がない。トルコ人はトルコ人のグループで行動し、ドイツ人はドイツ人のグループで行動する。Sはオープンな性格なので、トルコ人のグループに話し掛けたりするたしいけれど、そうするととたんに彼らはトルコ語のみで会話を始め言語の壁を張り巡らせるらしい(実際にはこの街のトルコ人達はドイツ語を話す)。
 行くバーもドイツ人の店はドイツ人だけ、トルコ人の店はトルコ人だけで、もしも一緒になれば必ず喧嘩になるという。

 どういった歴史的背景があるのか良くは知らないけれど、それでも僕にはそういった啀み合いが深刻ぶった遊びにしか見えない。こういう言い方は誤解を招くだろうけれど、たとえそれで人が死んだとしてもだ。戦争になったとしても。事態が深刻化して、それで人が重症を負ったり死んだり戦争になったり大事な人が殺されたり自分の攻撃で本当に人が死んでしまったりしたとき、それは悲惨なことで大きく重たいことになる。それを遊びだとはもう言えないかもしれない。でも、その出発地点において、僕にはありとあらゆる啀み合いが単に啀み合いたいから起こっているようにしか思えない。始まりはいつも「外部に敵を作って自分達はより強い連帯感を持ちたい」という欲求に思えて仕方ない。

 小学生のとき、僕は秘密基地を作って遊ぶことがとても多かった。基地を作るときはいつも敵の存在を仮定して作っていた。無論、僕たちは悪の組織と戦っていたわけでもなく、逆に警察から逃走している窃盗団でもなかったから、実際のところ基地を攻めて来るような者は一切存在しない。
 でも僕たちはせっせと「敵がここを通った場合には」とか「敵が見ても分からないように」とか、そういう文脈で罠を作ったり隠し通路を作ったりしていた。敵と戦う為の武器も、槍や木刀や投石機、胡椒爆弾、火炎放射器、オーストラリア人がダチョウを捕まえるときに使うような石の付いた紐、など色々作った。

 心の底では誰も攻めて来ないと分かっていたと思う。せいぜい野良犬くらいだろうと。
 ところが、僕たちは実際に人間に対してそれらを使うことになる。

 敵は思いもよらないところからやって来た。
 そう、僕たちは分裂して争いを始めたのだ。

 細かいことはもう覚えていない。ただ、ある時から半分くらいのメンバーが「この基地は俺たちの物だから、もうお前たちは使うな」というようなことを言い始めたと思う。僕はまだ3、4年生くらいで、そういった「政治的な」判断は上級生に委ねるばかりだった。気が付くと僕は基地を守るチームに入っていた。

 こうして突然僕たちの戦争ごっこは始まる。
 ここからが面白いところだけど、みんなが素手も武器も使って、口では汚く罵るのに、実際には殺傷能力のなるべく低い武器をなるべく”非”効果的に使って争った。
 この辺りを自分の中でどう整理していたのか分からない。投石機で石を投げるなら、大きい石は絶対に相手に当たらないように、小さな石なら足に当たるくらいの気持ちでやっていたと思う。木刀で対決するときは相手の体を狙うより、むしろ木刀同士が切り結ぶことだけを考える。釘の矢尻が付いた槍が出てきたら無条件に逃げるし、攻撃する者もけして本当に刺すことはない。
 僕たちはみんな真剣に争っていたけれど、絶対に相手を傷つけない、これは遊びなのだ、という暗黙のルールを守っていた。一見矛盾するような二つの条件の中で最大限の楽しみを見出そうとしていたのだと思う。

 数日、そういった放課後に始まり夕飯前に終わるパートタイムの戦争が続いたある日、ついに僕は一線を越えた。
 この時のことだけは今でもはっきりと覚えている。
 僕はその時一つ学年が下のAと1体1だった。僕たちは毎日のように一緒に遊んでいたけれど、今は敵同士だ。そのとき僕は丸腰で、彼は捨ててあったベビーベットから作った白い木刀を持っていた。そして振り回された木刀が、たぶん彼の予想に反して半ば事故的に強く僕の肩に命中した。痛いと思うより先に、そんな強さで木の棒が肩に当たったという事実に僕は驚いた。そして微かな恐怖と共に全身が熱くなり、次の瞬間中段の回し蹴りを彼の脇腹に入れていた。後にも先にも、これほど危機感を込めて人を蹴ったことはない。
 彼は痛みからというより、たぶんこれも驚きから泣き崩れた。それから僕も泣いたと思うけれど、この辺りから記憶がない。思い出すのは翌日お互いに謝って仲直りしたことだ。そして誰ともなしに戦争ごっこは終わっていった。

 幸いなことに、僕たちの戦争ごっこでは誰も大きな怪我をしなかった。それは幸運故もあるし、僕たちがまだ子供で大した破壊力を持っていなかったからだとも言える。大人になってから同じようなことをすると、特に僕が肩を打たれたような時のことが起こると、誰かが重症を負ったり死んだりするのだろう。
 大抵の場合、大人は戦争ごっこに飽きているし、心も強くなって多少のことでは逆上したりしない。でもそうでない大人もいて、やっぱり戦争が今もまだ世界の色々なところで起きている。