decomposition algorithm.


 カントール対角線論法を使って「無限」にも色々な無限があり、各無限の密度が定義できると示したのをはじめて知ったとき、僕は驚愕して、それからしばらくして違和感に苛まれ、すこし考えて「なんだか良く分からない」ということに落ち着いた。数学というのは厳密に組み立てられた体系だし、カントールはビッグネームだし、きっと僕の頭が悪いのだろうと思っていたら、実はあまり厳密でもなくて、カントールに異を唱える人々もたくさんいることを最近知りました。

 つまり、多くのことがそうであるように、カントールについても、賛成する人があれば反対する人もあるようです。どうしてそのような意見の相違が生まれるのかというと、その根底にある立ち位置の違いが全ての原因で、その立ち位置は「実無限」と「可能無限」に分類されます。

 実無限というのは「無限というのは本当にある」というスタンスのことで、対して、可能無限というのは「無限を生み出すプロセスはあるけれど無限そのものはない」というスタンスのことです。
 カントールという人は「実無限」の立場をとって議論を進めた人で、「可能無限」の人々から見ればちゃんちゃらおかしいということになります。

 僕は詳しいことを知らないので、明確に立場を表明できませんが、どちらかというと「可能無限」に傾倒しているのではないかと思う。基本的に高校までの数学は「実無限」の数学なので、僕達日本人というのはいつの間にか「実無限」で生きています。二つのうち一方しか教えないというのはフェアじゃないような気もするけれど、実無限でも可能無限でも別にどうでもいいじゃないか、何か違うのか? 無限は無限。みたいなアバウトさで成立しているようにも思えるし、それはそれでいいのかもしれません。
 もちろん実生活にはほとんど何の違いも現れないけれど、直線一つとっても本当は見方が二つ(以上)あるのです。普通、高校までの数学教育によって、僕達は「直線というのは点が無限に集まったものだ」と思っています。しかし、可能無限の方ではそんなことはなくて、「直線は直線であり、ある部分を選ぶという作業が点を作り出す」です。

 たとえば、目の前に一本のヨウカンがあるとします。それをナイフで切ったとき、切ることで断面は生まれる、というのが可能無限の立場で、最初から断面は無限個あって、断面の無限の集合がヨウカンだ、というのが実無限の立場です。

 円周率πは”無限”に桁が続くわけですが、「無限桁まで決まった何かの数字が本当にある」というのが実無限の立場で、「無限に続く数字を計算する方法があるけれど、どこかに最後まで決まった無限桁の数字があるわけではない」というのが可能無限の立場です。

 こんなことをOに言っていたら「別にどっちでも同じようなことじゃないか」と言われました。もちろん、物理学者としては別にどっちでもいいのだろうけれど、と最初は思ったけれど、本当は物理学においてもどっちでもいいということにはならないかもしれないなと思う。

 どうしてかというと、現代物理では「区別できないものは同じもの」という考え方が中心的な役割を果たすことも多いけれど、もしかしたら区別できないものを区別する方がいい場合だってあるかもしれないからです。式の中にπを書くとき、可能無限だろうが実無限だろうが、別に計算結果に変わりはないけれど、でも、意味は変わってくるのかもしれない。そして物理学の数式で表現された意味というのは理想的には僕達のこの世界そのもののことだ。区別できない複数個の同種粒子を区別することが、あるいは良い見通しを与えないとも限らない。

 そうだ、一つだけ実生活に比較的近いところで役立つことがあります。役立つというと言いすぎだけど、可能無限を使うと多くの人が一度は耳にしてなんだか分からないままになっている「アキレスと亀のパラドクス」がいとも簡単に解けます。
 実無限の立場というのは、「アキレスが亀の元いた場所へ着いた時には、亀はほんの僅かだけど確実に前へ進んでいて、それの無限回の繰り返しだからアキレスは亀に追いつくことができない」であり、普通に提示される問題はこの形です。
 さて可能無限ではこの状況をこう記述します。「アキレスが亀に追いついた。その過程を詳細に見たいならあらゆる時点での状況をあなたは見ることができます」

 ヨウカンの例えに戻れば、このパラドクスというのは「切り口を無限個集めればヨウカンができるけれど、無限個の切り口を集めるには無限の時間がかかる。だからヨウカンは存在できない」ということを言っているにすぎなくて、可能無限的には「ヨウカンはここにある。あなたがそれを切りたいならその切る位置というのはどこでもいいですよ。無限の選択肢がありますよ」という当たり前のことにすぎない。パラドクスなんて最初からなかったのだ。