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 広告くらいなんでもないはずだった。

 昔、まだインターネットにみんなが普通の電話回線で接続していた頃、当時のライブドア(多分ホリエモンが買う前だと思います)は画期的なサービスを開始した。それは無料インターネットサービスプロバイダとでも言おうもので、プロバイダに契約してお金を払わないでも、ライブドアに電話をかけて接続すれば電話代以外は無料、ただしブラウザに広告が付きます、というものだった。
 広告が出るくらい別になんでもないじゃないか、と思って僕はそれを利用した。

 初めてホームページを作ったとき、それもやっぱり無料で、ただし広告が出ます、というものだった。このときも僕は目立つものじゃなければ別に広告が出るくらい構わないと思った。

 だけど、最近インターネットに出ている広告が嫌で嫌で仕方ない。ほとんどのネット上サービスが無料で、その収入源を広告に依存していることを思うと、僕達が大量の広告に日々曝されているのは当然で、さらに広告主が広告料金を払えているということは、その広告発信者にそれなりのお金が流れ込んでいることを意味している。

 当然、広告主は沢山の人々がアクセスするサイトに広告を打ちたがり、逆に広告を置いてお金を稼ぎたいサイトの管理者はアクセス数を増やすことを念頭に置き始める。そうしてテレビの民放が辿ったような道を多くのサイトが辿り始めた。日本で最も有名なポータルサイトであるヤフーでも開けば、広告のくだらなさに開いた口が塞がらない。
 そして、さっきも書いたけれど、その下らない広告を打った広告主にそれなりの利益があるということは、その下らない広告に動かされている人間が相当数存在するということだ。インターネットが裾野の広い個人のメディアであるというのは、ある部分では崩壊している。ヤフーなんかはテレビの延長に過ぎない。

 まだ堀江貴文という人がテレビに出てぺらぺらと喋っていた頃、彼は挑戦的に新聞は終わると言った。ニュースはネット上に人気順に出るようにして、世の中の人々の関心が高いニュースを簡単に知ることができるようになる。アクセスの多い記事が自動的に上位に出るようにしておけば、関心の高いニュースから読める。もちろん人気のないニュースも残しておくから、読みたい人は勝手にそっちも読めばいい。というようなことを言っていた。だけど、上位に出ているニュースというのは世の中の多くの人が既にアクセスした、つまり既に知っていることでしかなく、本質的な意味合いではそれはニュースでもなんでもない。まだ誰も知らないことを人々に伝える手段には、それはなりえない。本当に新しいことはそこでは起こらなくて、単に世の中に追従する手段としてだけ働く。
 そして、結局のところ多くの人にとって、インターネットというメディアはそのようなポジションにあるといって過言ではない。雑誌を読んだりするのと同じことだ。

 広告は、だいたいが「お金」か「美容」に関するもので、言葉を置き換えれば「いかにして楽に稼ぐか」「いかにしてもてるか」という二つの欲望に還元されるものだ。
 ヤフー及び、それに準ずるサイトに毎日何人の人がアクセスするのか知らないけれど、沢山の人々が毎日毎日これらのバカ広告を見ていると、その何割かの人々は本当にバカになってしまうのではないかとときどき怖くなる。