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 シャーロック・ホームズの冒険は、当然ホームズという天才的な、それからちょっと変人とも言える名探偵が主人公だ。でも、語りはワトソンという助手の視点で行われる。ワトソンは医者でインテリだけれど、立場としてはホームズに「君はバカだなあ」といつも言われるような存在で、つまり凡人である僕達一般読者の視点に置かれている。

 僕は子供のとき、最初にホームズを読んだとき、とても新鮮な違和感を感じた。主人公の一人称ではなくて、主人公を見ている人間の一人称で語られた小説を初めて読んだからだ。
 いや、多分僕はホームズ以前に一人称で語られた小説すら読んだことがなかったように思う。僕がそれまでに読んだ小説というのは、「トイレットペーパーに文字を書いて、トイレの窓から外に投げれば誰かが気づいてくれるのではないか、とハカセは考えた」という風な三人称で語られるものばかりだった。

 これは単なる思いすごしかもしれませんが、児童文学というのは三人称が語られた作品が多かったように思います。比べて、普通に大人が読む(なんか変な表現ですけれど)小説は、特に純文学では一人称が多用されるような気がします。
 だから、僕は子供の頃「小説というのは三人称の所謂”神の視点”で書かれるものだ」と思い込んでいました。

 それが、今では三人称で書かれた小説を少し読みにくいなと感じて、自分で物語を書くときは一人称で書くことがとても多くなった。
 もしかしたらこれは自我の発達に関係しているのかもしれませんね。

 物語を語る一人称に、つまり主人公に「平凡な常識的キャラクター」を置き、その周囲にいる「かっこいい」だとか「単に異常」だとか、そういうキャラクターに異常な台詞や威張り腐った台詞を言わせるというのは良く使われる手立てで、作者はそのスタイルの中であればどんなに過激な台詞も使うことができる。「いえいえ、僕はあくまでこの常識的なスタンスなんですけれどね」という言い訳が構造的に成立しているからだ。それが色濃く出ている作品に出会うと僕は少し嫌味な気分になる。



2007年8月31日

 8月という夏代表の月を締めくくるかのように朝は酷い雨だった。その後嘘のように雨は上がり。それから昨日までの暑さも嘘だったかのように気温が下がる。

 ネットでこのような読み物を見つけました。
 『犬を飼うってステキです−か?』(東京都衛生局生活環境部獣医衛生課)

http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/eisei/d_suteki/suindex.html

 この中に

 「犬を飼うことはもともと子供にできることではありません」

 ときっぱり書いてあって、僕は一瞬たじたじになってしまった。