think.

 考えが行き詰まり先生に質問に行くと、先生が答えを言う前に自分で答えを見つけることが良くある。机の前に座って考えていて、やっぱり分からなくて、「もう相談しよう」と思い先生を訪ね、そうして自分が何に困っているのかを説明しているうちに「あっ、そうか。こうすればいいんですね」という風に答えまでしゃべってしまいそのまま帰ってくる、という具合です。

 こういうとき、僕は自分がそれまで考えている振りはしていたけれど本当は何も考えていなかったことを思い知る。考えるのって、結構面倒ですよね。別に重いものを持ち上げたり、長い距離を走ったりしてゼーゼー息を切らすわけでもないのに、どうしてか僕は「考える」という行為をかなり限られた対象に対してしか自発的に行えない。この問題はここを3分くらいじっくり考えれば解決するな、ということが分かっていても、その3分の思考が面倒で、そこから逃げて単に机の前に座っているだけだ、という状況に良く陥る。なにかの弾みでちょっと考えてみればなんてことなく問題は片付き、結果的に3分で済んだものに数時間を費やしたという後悔が残る。

 「考えているとき」と「考えているっぽいだけ」のときは明確に頭脳の明晰さが違って、「考えているっぽいだけ」のときは足すべき数字が目の前に2個並んでいるときに足し算を開始しないで、なんとなく数字を2個眺めているだけで、足すの面倒だな、なんて思いながら何故か勝手にどんどんと疲れていく。

 「考えているとき」は絶対に答えに到達するという自身があって、頭の中が勝手に何かをしてくれる。どういう操作をしているのかは僕には分からない。集中して考えているとき何をどのように集中しているのか分からない。でも、やりかたが分からないのに僕達は考えている。

 考えるって、どういうことなんだろう。

 先々週、みんなで別荘に泊まったとき、Iがあるゲームを教えてくれた。紐を2本用意して、二人の人間がそれぞれ手錠を掛けられたときみたいに両腕を紐で繋いで、かつその紐は交差している、という状態を作る。そうすると二人はもう離れることができなくなる。でもここから上手く脱出することが本当は可能で、その脱出方法を考えよというものです。大抵の人は、腕をくぐったり様々なアクロバティックなことをするけれど、そんなことでは取れない。
 この日はIも答えを忘れたということで、ちょっと試しても誰も解けないので、僕達はそのまま催眠術を始めたのですが、そのあと寝る前に頭の中で考えると問題は一瞬で解けた。

 このとき、僕は自分が物事をどういう風に考えているのか少し分かったような気がしました。それは言葉にしてしまえば無味乾燥なものですが、モデリングと試行錯誤で、それって古典的な人工知能みたいで嫌だなと少し思い、それから思考というのはそれ自体たいして高度なことじゃないのかもしれないなと思いました。本当はもっとファンタジックなものだと思いたいけれど、黒澤明でも「創造とは記憶のことである」と言っているんだから仕方ないかもしれないなと思う。もちろん、ここでは意識だとかイメージを描くことだとかは対象にしていません。