鳥の飛べる形。
川岸に腰掛けて、夕方の月を見上げながら僕達はハンバーガーを食べて、フレンチフライを食べて、それからジンジャーエールを飲み干した。通り過ぎる犬の呼吸を背中に聞いて、飼い主の単調な歩調を地面に聞き、そして僕にはやっぱり月の存在が不可解でしかたない。
「あそこに直径3500キロメートルの星が本当に浮かんでいるということが信じられる?」
「さあ、どうかしら。私は信じてもいないし、疑ってもいないわ。見えるものは見えるものよ」
彼女はハンバーガーの包み紙やナプキンを一まとめにして、コンパクトな、とても捨て易いゴミを作った。捨てるのに便利なゴミのことを本当に便利だと呼んでもいいのかどうかは分からない。でも、とにかく僕はそれをゴミ箱へうまく投げることができた。
「さて」
僕がどう思ったところで、彼女がどうも思わないところで、月はこれからますます昇り、ますます強く光る。
なんだ、アックスリバーボーイってタヒチのグザヴィエだったのか。アックスリバーボーイは今月のFMcocoroでかかりまくっているアーティストなのですが、どう控えめに聞いてもタヒチ80そのものだし、出身はフランスだというし、同じ国からここまで似通ったバンドが現れるなんて果たして許されるのか、と思っているとグザヴィエのソロだということが分かった。なら似てても当然だ。
FMcocoroでよく流れているラジオショッピング番組は、もう胡散臭さ全開で、それはもう笑いや呆れを通り越して怒りを呼び起こすほどの胡散臭さです。このところは更に拍車が掛かって来て、「飲むだけで、飲んだその日に3キロ痩せるお茶」を販売しています。毒ですね。
先日、北大路通りを自転車で走っていると、あるリサイクルショップのゴミ置き場に何か僕の気を引くものがあった。よく見てみるとそれはオモチャ箱だった。スヌーピーの絵が付いていて、子供が一人入れるくらいの大きさで、車輪がついていて、木でできていて、引っ張って動かすための紐がついている。僕は小さいときこれを持っていた。まさか僕が持っていたそのものではないだろうけれど、同じ物を持っていた。このときゴミ置き場で見つけるまで、僕はこのオモチャ箱のことを完全に忘れていた。それがとても気に入っていたにも関わらす。なんてことだろう。ときどき、自分が忘れてしまったもののことを考えて恐ろしくなることがある。もちろん、忘れているもの自体について考えることはできないけれど、莫大な量の物事を僕が忘れてしまっていることは確実だ。今まで生きてきた28年間について、僕が思い出せることといえば極々限られたものでしかない。
もっと言ってしまえば、思い出せることとそれを実感として受け止めることは別のことで、僕は自分が小さいときにどういった秘密基地を作ったのか思い出すことはできても、今となってはそれが「この僕自身」であったというリアルな感覚がない。ダンプカーの上で遊んでいて、その鉄板にひどく頭をぶつけたことや、ちょっかいをかけて(僕は彼らに向かってパチンコでクラッカーボールを撃ったのだ)山の中で中学生の集団に追い回されたことを、覚えてはいるけれど、それはもはや遠い景色にすぎない。僕の記憶ではあるものの、厳密な意味合いではそれは今の僕に属するものではない。結局のところ、瞬間というものは瞬間ごとに失われる。僕に許されているのは、僕がいるのは、現在只今というこの瞬間だけだ。
もっともっと言ってしまえば、認知科学的な意味合いでは僕達には「現在只今」というものすら許されてはいない。参ったな。
「あそこに直径3500キロメートルの星が本当に浮かんでいるということが信じられる?」
「さあ、どうかしら。私は信じてもいないし、疑ってもいないわ。見えるものは見えるものよ」
彼女はハンバーガーの包み紙やナプキンを一まとめにして、コンパクトな、とても捨て易いゴミを作った。捨てるのに便利なゴミのことを本当に便利だと呼んでもいいのかどうかは分からない。でも、とにかく僕はそれをゴミ箱へうまく投げることができた。
「さて」
僕がどう思ったところで、彼女がどうも思わないところで、月はこれからますます昇り、ますます強く光る。
なんだ、アックスリバーボーイってタヒチのグザヴィエだったのか。アックスリバーボーイは今月のFMcocoroでかかりまくっているアーティストなのですが、どう控えめに聞いてもタヒチ80そのものだし、出身はフランスだというし、同じ国からここまで似通ったバンドが現れるなんて果たして許されるのか、と思っているとグザヴィエのソロだということが分かった。なら似てても当然だ。
FMcocoroでよく流れているラジオショッピング番組は、もう胡散臭さ全開で、それはもう笑いや呆れを通り越して怒りを呼び起こすほどの胡散臭さです。このところは更に拍車が掛かって来て、「飲むだけで、飲んだその日に3キロ痩せるお茶」を販売しています。毒ですね。
先日、北大路通りを自転車で走っていると、あるリサイクルショップのゴミ置き場に何か僕の気を引くものがあった。よく見てみるとそれはオモチャ箱だった。スヌーピーの絵が付いていて、子供が一人入れるくらいの大きさで、車輪がついていて、木でできていて、引っ張って動かすための紐がついている。僕は小さいときこれを持っていた。まさか僕が持っていたそのものではないだろうけれど、同じ物を持っていた。このときゴミ置き場で見つけるまで、僕はこのオモチャ箱のことを完全に忘れていた。それがとても気に入っていたにも関わらす。なんてことだろう。ときどき、自分が忘れてしまったもののことを考えて恐ろしくなることがある。もちろん、忘れているもの自体について考えることはできないけれど、莫大な量の物事を僕が忘れてしまっていることは確実だ。今まで生きてきた28年間について、僕が思い出せることといえば極々限られたものでしかない。
もっと言ってしまえば、思い出せることとそれを実感として受け止めることは別のことで、僕は自分が小さいときにどういった秘密基地を作ったのか思い出すことはできても、今となってはそれが「この僕自身」であったというリアルな感覚がない。ダンプカーの上で遊んでいて、その鉄板にひどく頭をぶつけたことや、ちょっかいをかけて(僕は彼らに向かってパチンコでクラッカーボールを撃ったのだ)山の中で中学生の集団に追い回されたことを、覚えてはいるけれど、それはもはや遠い景色にすぎない。僕の記憶ではあるものの、厳密な意味合いではそれは今の僕に属するものではない。結局のところ、瞬間というものは瞬間ごとに失われる。僕に許されているのは、僕がいるのは、現在只今というこの瞬間だけだ。
もっともっと言ってしまえば、認知科学的な意味合いでは僕達には「現在只今」というものすら許されてはいない。参ったな。