スピン1/2。

 これは春の日記にも書いたことがあるけれど、ときどき僕は自分の人生が以前にも一度、もしくは何度かあったような気分になる。本当はこの先自分に起こることを全て知っていて、体験していて、それをまたなぞっているに過ぎない。ただ全部忘れているのだ。きれいさっぱりと、まるで初期化されたノートパソコンみたいに。そんな気分になる。とても強力な既視感のようなものだ。それが何故なのかは分からない。本当に何度も同じ人生を繰り返しているなんて考えられない。でも誰にも否定することはできない。

 この間、アパートの前でバイクを修理しているとき、停めてあった知らない人の自転車の上に道具を置いているとその持ち主が現れた。僕が「すみません」と謝ると彼女は「全然大丈夫」と応え、それから「このアパートは部屋が寒々くて辛いですね」というような感じで、しばらく話をすることになった。
 彼女は中国からの留学生で、日本語は比較的良くしゃべれるけれど、でももう一息というところだった。だから時々コミュニケーションがうまくいかなくて、結局その言葉の真意が分からなかったのだけど、彼女は「私達の間であなたを良く知っています」と言った。僕は同じく中国からの留学生である友達のRと彼女は友達で、だから彼女も僕のことを知っているのかと思ったけれど、でも彼女はRのことを知らなかった。もちろん、僕は彼女のことを何も知らない。なのに彼女は僕の何かを知っているという。いや、彼女じゃなくて彼女達は。奇妙な情報のアンバランスを居心地が悪いと思う。
 僕たちは名前と部屋番号を交換して別れた。

 ここまでは正真正銘、一昨日書いた。日記を書いていたけれど、熱で少し眠った方が良いと思って投げ出した。
 そして、昨日の夜中、僕は村上春樹の”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”を読んでいて、こんな文章にぶつかった。

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「何もかも昔に起こったことみたいだ」と私は目を閉じたまま言った。
「もちろんよ」と彼女は言った。そして私の手からグラスをとり、シャツのボタンをいんげんの筋をとるときのようにひとつずつゆっくりと外していった。
「どうしてわかる?」
「知ってるからよ」と彼女は言った。そして私の裸の胸に唇をつけた。彼女の長い髪が私の腹の上にかかっていた。「みんな昔に一度起こったことなのよ。ただぐるぐるとまわっているだけ。そうでしょ?」
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 僕が6歳のときに村上春樹はこの文章を書いた。もちろん、当時の僕は村上春樹なんて作家のことを知らなかったし、みんなでかくれんぼか何かでもしているときに、どこかの作家がワードプロセッサーに打ち込んだのと同じようなことを20年後に自分も考えるなんて思いもよらなかった。大抵の人間は同じ事を考えるものだろうけど。

 このあいだAちゃんと見た「ハッピーアクシデント」という映画では、未来世界に住む主人公の男が過去に起こった事故の記録を調べるうちに、そこに載っていたある女に恋をして400年未来から現代にタイムトラベルをして来る。そして彼女を見付けて恋人になる。でも彼女はタクシーに轢かれて死んでしまうことになっている。その事故が記録され、400年後に彼がその記録を読むのだ。そして彼は彼女の写真で恋に落ち、400年過去へとタイムトラベルをする。そして彼女と恋人になり、彼女はタクシーに轢かれ、記録され、400年後彼がそれを読み、タイムトラベルをして、彼女と恋人になり、彼女はタクシーに轢かれ、記録され、彼はそれを読み、・・・と延々続くループを打ち破る話なのですが、そのループに気がついた彼は言う、

「はじめて僕に会ったとき、どんな気がした? 以前にもどこかであったような気がしなかったか? まるで僕たちは何度も何度も同じ事をくりかえしているような気分になることはないか?」

 実は、”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”という作品を読むことを、僕は長い間避けていました。現実と幻想の2つのストーリーが平行して進むという構成がどうにも受け入れられなかったからです。
 ところが、先月僕の研究室にやってきたトルコ人のOが”世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド”の英語版を嬉々として見せてくれ、その後パーティで出会ったYちゃんに「はやく読みなさい!」と言われて、フリーマーケットに行くと50円で僕の目の前に”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”が置いてあった。もう読むしかないのだ。

 そして僕はそれを読み終えた。参考文献にホルヘ・ルイス・ボルヘスの「幻獣辞典」が上がっていた。ボルヘスは最近僕が情報メディア特論で発表した作家だった。世界というのはだんだんと繋がってくる。そして思うに、やっぱりぐるぐると回っているんじゃないだろうか。ゴーギャンが言ったように、僕たちはどこから来て何者でどこへ行くのか分からない。実はどこからも来ていなくて、何者でもなくて、どこへも行かない、ということだって多いにあり得る。