デビルズリングと玄妙なる眠り

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 デビルズリングと彼は呼んでいた、と思う。それは至ってシンプルなパーティーゲームで必要なのは二人の人間と二本の紐だけ。まず一本の紐を一人目の左手首に結びつける。それから、右手首にも。そうするとちょうど両腕が輪っかのように繋がる。続いてもう一人の人の両手首にも同じように紐を結びつけるのだが、このとき二人それぞれの腕が作る輪っかがお互いをくぐっているようにする。つまり、二人の人間はちょうど鎖の一部のように繋がれた形になる。一見すると、紐を切らない限り二人は離れることができないのだが、実は紐を切らなくても知恵の輪のように工夫してやれば二人は離れることができる。輪っかを外そうとして二人の人間があれこれ色々な体勢を試すのが、見ていても面白いという、たわいのないゲーム。

 随分昔、みんなで友達の別荘へ行って、寝る前にこのゲームをした。教えてくれたのはチェコから来ていた友達の彼氏で、彼は訳あってその友達ではなく僕の部屋に1週間泊まっていた。当時の僕の部屋は家賃29000円の6畳1間で、連日真夏の炎天下を京都観光してクタクタになり(夏の京都観光は地獄のような暑さだ)、さらに狭い部屋でお互い神経質なりに男二人なんとか眠り、楽しくはあるけれど疲労は蓄積していた。その1週間が終わっての”みんなで別荘”というのは、どことなく草臥れていたものの、実に解放的だった。別荘はとある山の中にあるのだが、とある複雑怪奇な理由によってお風呂は使えなかった。複雑怪奇な理由の一端を担うある施設が別荘からケモノ道のようなものを抜けた先にあり、僕たちはそこまでお風呂を借りに行ったのだけど、もちろん複雑怪奇な理由によってそれは無料だった。
 湯上りの気だるい体で、ケモノ道を抜けて全員が別荘へ戻り、一息ついた時にデビルズリングは始まった。
 ちょうどというかなんというか、僕たちはカップル2組と僕と僕と仲の良い女の子の6名だったので、それぞれのカップル(と僕と僕と仲の良い女の子)で順番にデビルズリングをやってみた。一見して、それは不可能に見えた。どんなヘンテコな体勢を試したところで、鎖みたいにつながった腕と腕を外すなんてできるわけがない。取れる体勢のレパートリーもそこまで沢山存在しているわけではないし、すぐに「これは何かの間違いではないか?」ということになった。外れる訳ないじゃないか、と。さらに肝心の言い出しっぺであるチェコ人が「僕も解法は忘れてしまったよ。でも確かこれであってたし、外す方法あったはず」という始末だったので、少し酔っぱらってもいたし、僕たちは「もういいや」とゲームを投げ打って寝てしまった。

 解法がやって来たのは朝方のことだ。僕は夢の中にいて、デビルズリングの模式図を描いていた。リアルな人間の腕や手首や紐ではなく、それらの要点だけを抽出した簡単な図だ。まったくバカみたいに、その簡略図を見るとトポロジー的に2つの輪っかは全然鎖みたいになんてなっていなかった。スカスカだった。どこからでもどのようにでも全く抵抗なく外せるようになっていた。
 僕はまだすっかり夢の中にいたのかもしれないし、半分は起きていて布団の中で目を閉じたまま考え事をしていたのかもしれない。いずれにしても意識ははっきりしていなくて、昨日これに気づかなかったなんてなんてバカだったんだと思い再び意識を失った。気付くと明るい朝が来ていて、僕たちはのそりのそりとそれぞれに起き上がって、布団の上に胡座をかいたりなんかして眠たそうに「おはよう」を交わした。真夏だったけれど、標高の高い山の中では、夏の朝はすっきりと爽快で、僕たちはリビングのテーブルに座り、誰かがコーヒーを淹れて、誰かがパンケーキを焼き始めた。まるでずっと前からこの別荘で暮らしていたかのように、その朝の食卓は自然に準備された。テーブルを拭いたりお皿を用意したり調理をしたり運んだり、誰もが自分のすることを完成間近のパズルのピースを嵌めるみたいな心地良さでこなした。誰も命じず、頼まず、命じられず、頼まれず。我々というチームのピークは今ここであり、あたかも我々はこの朝の食卓を作るために結成されたチームであるという感じが、大げさだけど、した。それは素敵な感覚だった。

 食事が一段落すると、僕はデビルズリングの解法が分かったと言った。朝の光の中で行うには、このゲームは随分と馬鹿げていてちっぽけなものに見えたし、朝食という実体の伴った肉体的満足感を与えてくれる行事の最中とあっては、もう本当にどうでもいいことみたいに思えた。けれどまあ、せっかく解法が分かったことでもあるし、いくらちっぽけに見えてもこの問題には昨晩全員で取り組んだのだから、朝食における1つの話題として取り上げてもいいだろう。
 僕は昨晩のように再び両手首を紐で結び、これもまた昨夜と同じく仲の良い女の子の両手首を結んだ紐とで鎖を構成した。そして夢の中で知った解法の通りにパズルを解いてみせた。それは至ってシンプルで地味な解法で、僕たちはアクロバティックな姿勢を取る必要がないどころか、立ち上がる必要すらなく、そして解法の実行に必要な時間は3秒だった。まったくどこにも見応えがなく、さらに見れば「なんだ、そんなことか。。。」というような、いまいち驚きに欠けるものだった。既に半分はどうでもいい扱いになっていた問題の、全く地味な解法は「ふーん」という尻すぼみな反応と共に消化された。

 そのようにして僕たちはデビルズリングというゲームを体験した。その小旅行におけるデビルズリングの重要性というものは極めて低いものの、こうして朝方の夢の中で問題の解法を得るというのが僕は好きだ。もしかしたら「眠ると問題が解決するみたいだ」と、はっきり意識したのはこのときが初めてだったかもしれない。ベンゼン環の構造が夢の中で浮かんだとか、歴史上のいくつかの科学的発見が睡眠中にもたらされたという話は、子供の頃もっともらしい嘘だと思っていた。なんというか夢の世界に秘められた真実があるみたいで、美しく魅力的な話だからだ。実際に僕たちの脳(たぶん)は睡眠の最中に玄妙なる何かを行なっているみたいだから、その点に置いて僕たちは嬉しく頼もしく思ったっていいだろう(もちろん起きている時に、その場で解法が閃けば一番いいのだけど)。

 ここまでの文章をいつ書いたのかは覚えていない。
 一つ前の記事に書いたように、僕の人生に日常的な長時間の電車移動というものが発生して、いつか書いたこのメモのような作文のことを思い出した。
 電車に揺られて文章を書いたり、プロダクトの設計をしたりしていると、50%くらいの確率で眠気に襲われる。「目を休めなきゃな」と言い訳のように心の中で呟いて目を閉じ、眠っているのだか起きているのだか良く分からない状態になること(たぶん)数分、考えていてことの解がふと浮かんで覚醒するということが何度かあった。もしかすると電車の中で眠っているような眠っていないような状態になるのは、朝方に夢の中で考え事をするのにとても似ているのかもしれない。
 「考える」という行為はとても曖昧だ。「じゃあ考えてみます」というとき、僕達は一体何を行うと宣言しているのだろうか。
 最も分かりやすいのは、シミュレーションだろう。いくつかの選択肢を吟味してみる。それでどの選択肢が最も優れているのかを判断する。だけど、これは閃きみたいな人間ぽい何かとは別ものの感じがする。どちらかというとコンピュータが得意とすることだ。閃きみたいなものがどこからやってくるのかは良く分からない。脳にある「A」と「B」を結びつけるのではなく、「A」と「い」を結びつけるような飛躍のことなのかもしれないけれど、飛躍の仕方は良く分からない。世の中には閃きを助けるマシンとして、ランダムに言葉を組み合わせたりする機器やメソッドが存在するが、それはランダムな結果に対してシミュレーションを行うだけのことで、あまり魅力的には思えない。
 多くの人が、ある素敵な閃きに対して「降ってきた」という表現をする。
 電車の中で半分眠ることが、もしもその「降ってくる」に加担するのであれば、それは朝方の夢よりも幾分コントロールし易くて面白いし、これから何か難しい問題について考える時は電車の中でウトウトしてみようと思う。