海を見下ろす都会の窓から。

 佐藤雅彦さんの「毎月新聞」をとても久し振りに引っ張り出すと、第一回目の記事は「じゃないですか禁止令」というものだった。
 じゃないですか、という言葉は個人の感情に過ぎないものを、あたかもそれが一般的な事象であるかのようにみせてしまうずるいものだと彼は主張していた。たとえば、「こういう仕事って面倒じゃないですかぁ」「(私達)若者ってこういうの好きじゃないですかぁ」「暑いと外に出るの嫌じゃないですかぁ」。こういう言葉は自分の感情に一般性を持たせて正当化しようという意志の表われである。本当は「私はこの仕事は面倒だからやりたくない」「私はこういうものが好きだ」「私は暑いので外には出たくない」というべきなのに、視点を一般論に持っていくことで「私は」というのを消している。自身の責任を回避している。

 ニュースキャスターまでもが用いるようになった、このような言葉使いの果てに、僕たち日本人がどのような影響を受けるのかはわからない。でも、言葉というのは人類が使用するもののなかで最も強力なツールで、自分の意志を一般論に持ち込むこの用法が僕たちに影響しない筈はない。
 だから、佐藤さんは「じゃないですか禁止令」というのを出した。

 そのあと、Aちゃんと話をしているときに僕はこの「じゃないですか」というのは何かにとても良く似ているな、と思い、考えてみるとそれは「諺」だった。諺は学校でも習うし、古めかしいし、なんだか有り難いような気がするけれど、でも考えてみれば諺というものも「自分の思考、感情を一般論の世界に昇華する」という意味合いでは「じゃないですか」と同質だ。

 「あのさあ、仏の顔も三度までだろ。僕だっていい加減に怒るよ」

 本当は単に彼が腹を立てているだけなのに、わざわざ「仏の顔も」なんていって自分が怒ることを「一般的にも正論だ」としている。

 諺には相矛盾するものが多く存在することに、僕たちはとても幼いうちから気が付いている。それはどういうことかというと、場面場面に応じてその人が適当な諺を使えばいいということで、自分がゆっくりしたいならば「いそがば回れ」と言えばいいし、急ぎたいならば「善は急げ」と言えばいい。諺という一般論に自分の意見を溶け込ませて説得力を増す、ひいては自己責任を回避する。このとき「いそがば回れ」というのは「急いでいるときってゆっくりやった方がいいって言うじゃないですかぁ」だし、「善は急げ」は「こういうことってさっとやったほうがいいって言うじゃないですかぁ」なのだ。諺というのはそういう「ずるい」機能のことにすぎない。

 日本人は(海外にも諺はあるけれど)こういうふうにして、昔から「じゃないですかぁ」を使ってきた。これは日本の組織が責任の所在をなんとなく曖昧にぼかして、一体誰がどういった形で責任をとったのか良くわからないうちに物事が片付いていくというのに反映されているように思う。
 でも、僕はこういった共同体に責任を染み込ませるやり方を結構いいものだと思います。なあなあでどうにかやっていくというのは日本人の得意とすることで、それは今までとてもうまく機能してきました。なんでもはっきりしている欧米のやり方がいいとは単にはいえません。人の世は想像を絶するほど複雑で、最終的なものを「共同体」に委ねて消化するのは「共同体」構成員にとってはとても賢いやり方だと思えるのです。

 昔、テレビの討論番組で「死刑制度に賛成か反対か」という議題があって、そのときに誰かが「死刑、死刑って、あんなものは国家による殺人ですよ、殺人、人殺しに他ならない」と言い。それに対して、「だから、いいんじゃないですか、殺人には違いないけれど、それを”国家”が行うからいいんじゃないですか」という反対意見を誰かがした。
 このテレビはもう何年も前に放映されたものだと思うし、誰が出ていたのかとか、他に何が話し合われていたのかとか、そういったことは何も記憶になくて、ただこのやり取りだけを僕は忘れることができない。

 「国家による殺人だから良い」

 この意見には僕は与することができる。
 死刑までいかなくても、僕たちは罪人に罰を与えなくてはならない。そして、罰を与える、あるいは人を裁くという行為は本来人間が行うものではない。それは「国家」が行っているのである、としないことには刑罰という制度は機能しない。死刑を執り行うとき、最後のボタンを押す人間が「国家」の名を語らずに任務を完了できるだろうか、「ボタンを押すのは私ではなく”国家”である」というロジックを持たずに、彼はその仕事を行えるだろうか。裁判官が死刑を告げるとき、罰を告げるとき、「国家の名において」ではなく「私の名において」、そんなことが言えるだろうか。死刑を告げるとき、彼は実行力を伴って「君は死になさい」と言っているのだ。子供がケンカでいうのとは訳が違う。

 もちろん、歴史は「国家の名において」あるいは「陛下の名において」暴挙も繰り返した。だから、共同体にその意志と責任の所存を帰依するのは諸刃の剣だ。でも、僕たち人類が共同体を構成して生きている以上、僕らはこの機能をうまく使っていくべきだと思う。ひらたくいうと、これは単にみんなで仲良く問題を解決しましょう、ということになるのだけど。

 だから、僕は「じゃないですか」を部分的に解禁しても良いのではないかと思う。