ジョシュアの中の欠落した部分。

 先日、ある講義で先生が、「これは、もしかしたらセクシャルハラスメントだとも取られかねないことですが」と前置きをしてから話を続けるというシーンがあった。話の内容は、ある眼科疾患における男女間での発生性差についてで、僕にはそれがハラスメントに繋がる話だとは全然思えなかった。それは単に、医学が提出したデータのことにすぎない。女性の方が男性よりも圧倒的に乳癌のリスクが高いとか、そういうのと同じ話で、男と女では体の作りが違うのだからかかり易い病気が異なるのは当然のことだ。

 だから、僕は話の内容には違和感を覚えなかった。
 僕は話の内容にではなく、「セクシャルハラスメントの可能性がある」というアナウンス自体に強い違和感を感じた。なぜなら、我々は言葉をそれに付随するイメージなしに、全く無意味なものとして聞くことはできないからで、セクシャルハラスメントという言葉はどのような文脈で、たとえどんなに丁寧で親切な文脈で使われても、その言葉自体がすでにハラスメントとなり得るからだ。
 つまり、「セクシャルハラスメントの可能性がある」というアナウンスは、それ自体が既にセクシャルハラスメントの可能性を持つ。これは考えてみるとフーコーが「性の歴史」の中で既に喝破していることで、僕たちはセクシャルハラスメントという言葉を作ることでそれ自体についてより多くを語ることになってしまった。

 もちろん、僕はこの文章を書きながら、この文章自体がそれをすでに体現していることを理解しています。だから、もしも不愉快を感じられた方がいらっしゃったらとても申し訳なく思います。僕がどのような書き方をしようと、ハラスメントという言葉は既にハラスメントになっている可能性を拭い切れない。

 その先生は「差別はいけない」ということも度々言われるのですが、この差別という言葉だって同じことだ。「差別はいけない」という言葉使いは差別を消そうとする文脈だけど、でも、この文章自体が「差別」という単語を有する以上、差別に関するもろもろのネガティブな意味を含まないということはできない。

 なんだか混乱してきましたが、僕が何を言いたいのかというと、その言葉が存在する以上はその言葉の持つ概念も存在し続ける、ということです。
 もしも、人類が完全に差別をなくすことに成功したとして、その時彼はこういうでしょう。

「我々は遂に差別をこの世界から消し去った」

 もちろん、このとき差別は目に見える形では存在しない。でも、目に見えない形で差別は存在している。それは”差別”という言葉が「差別をする」「差別をしない」という両方の文脈で使用可能な単語であり、「差別をする」という意味を含まないでは存在できない単語だからだ。人類は差別があった時代との対比においてのみ、「差別がない」と語ることができる。彼は頭の中に「差別をする」という概念を持っていなくては「差別がない」とは語ることができない。
 もしも、真に差別というものが消えたなら、そのとき差別という言葉も消えている。僕たちは「差別」という言葉を用いて、「差別が存在しない」とは言うことができない。差別がない、ということは、本当は「何も言わない」ということによってしか言うことができない。

 これは他の言葉全てにおいて同じことが言える。
 僕らは”○○”という言葉を用いて”○○がこの世界に存在しない”ということを言うことができない。なぜなら、”○○”という言葉を発するとき、僕たちの頭の中には○○の概念が既に存在しており、また○○という言葉がその文化圏において存在しているということは、その文化が○○の概念を持つということだから。
 だから、僕たちは○○が存在しない、ということを「何も言わない」ということによってしか言うことができない。

 これは丁度、「ゾウを思い浮かべてはいけません」という命令に似ている。
 僕たちはこの命令を聞いてゾウを思い浮かべないことはできない。もしも本当にゾウを思い浮かべて欲しくないのならば、ゾウ、という単語を使ってはならないし、何も言わないか、もしくはゾウに全く関係のない命令をするしかない。

 僕たちは、本当に言いたいことを言うことができないし、本当に言いたいことは言われていないことの中にある。