ステーション。

 ちょっとした用があって、今日も少しだけ実家に帰った。そして、晩御飯を食べてすぐに、電車で自分のアパートに戻ったのですが、なんと電車の乗り換えを間違えてしまいました。通いなれた路線なのに、僕はシャッフルから流れてくる音楽に没頭していて、なんとはなしに降りなくてはならない駅の一つ手前の駅で降りてしまったのです。しかも駅の階段を降りるまで自分が間違った駅で降りたという事に気が付かなかった。階段の途中で「そういえばこんなに階段狭かったっけ?」と気が付いて、そして、次の電車に乗ればいいや、と時刻表を見ると、次の電車までは運の悪い事に20分以上も時間があった。

 僕は待つ事がそんなに苦手ではないし、だいたい今はシャッフルもあるし、本だってもっているし、20分の暇潰しは至って楽なものなのですが、でも一駅くらいなら歩いてもすぐだろうし、次の電車が来る前に本来目的としていた駅に辿り着くのではないか、と思って僕は改札を出た。
 雨が僅かに降っていて、暗くて良くは見えないけれど夜空は雨雲を貯えているようだった。一瞬歩くのをやめて、もう一度改札をくぐろうかと思ったけれど、一駅の為に切符を買い直すのも癪だし、雨くらいなんとでもなると思い、僕は線路に沿って春の夜にしてはやけに冷たい雨の中を歩き始めた。

 しばらく行くと、雨はだんだんと強くなり、そして自分がどこにいて前の駅と次の駅のどちらに近いのかも良く分からない、という困った状況が発生しようとしていた。ゴールデンレトリバーと散歩していたおじさんが早足に家へ向かい、僕は少しだけ早歩きをした。それから高架の下に入って雨宿りを考えたとき、目の前のフェンスに傘がぶら下がっていたのでそれを貰った。
 傘というものは結構どこにでも落ちているので助かる。僕はよく傘を拾うし、それからよく傘を置いてくる。こういう風に困ったときに傘に巡り合えるようになったのは、自分もそこら辺に傘を置いてくるようになったせいではないかと思う。この間、コンビニに行くと雨が止んだので、そのまま傘を置いてきた。きっと傘がなくて困った人が拾っていったのだと思う。そして、今日は僕が拾った。

 傘さえあれば、もう何も恐れるものはなかった。それから5分も歩けば、僕は目的の、使い慣れた駅に到達した。
 そして、電車から降りてくる人の中に古い友人を見付けた。彼とはもう7年もあってないし、はっきり彼なのだとは瞬時に判断できなかった。たぶん、向こうもそうだったんだと思う。すれ違いながら目が合って、何秒か経過して、僕らは話し掛けるべきタイミングを逃し、結局何も話さなかった。
 彼とは昔、ある所に一緒に通っていた。そして僕はそのある所で明日から正規にアルバイトをする。なんとなく、今日僕が乗り換えを間違えたのは彼とすれ違う為だったのではないかと思えて仕方なかった。本当は話をすれば良かったのかもしれないけれど、すれ違うだけで十分に色々なことを思い出したりもする。

 僕はいつも思っているのだけど、自分の人生が何かの流れに乗っているような気がして仕方ない。
 ものすごい偶然で助けられる事があったり、後から振り返れば実に危ない橋を渡っていたり、何かに生かされていて、時々、もしくはいつも助けてもらっているのだと思わないと自分の人生がうまく説明できないような気がするのです。

 その友達にすれ違ったせいか、僕は電車の中で既視感のようなものを味わった。僕は遠い遠い昔にもこの電車にこうして乗っていた事が合って、そしてその後長い人生を過ごしたことがあるような気がした。その同じ人生を今はもう一度トレースしていて、本当は僕はこれから何が起こるのか心の底では全部知っているような気がした。そして僕が何の為にトレースという作業をしているのか、トレースというのはどういう位置に置かれた行為なのか、そういうことも全部知っているような気がした。

 という変な気分。

 それと今日は昔視覚の講義でお世話になった先生が主催のゲシュタルト心理物理学の講演に言ったけれど、結局英語で良く分からなかった。ドイツ人の博士はドイツ訛りの英語で、日本人は日本訛りの英語だった。ネイティブスピーカーがいないと、お互いにちょっとくらいおかしな英語を使っても相手が使っている英語がおかしいのかどうか判断できないので、どんどんとおかしな英語になっていくのではないかと思った。でも、もちろんそれでも通じればいいし、言語の本質というものはその辺りにあるんじゃないだろうか。
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