トマトケチャップ。
内田先生のブログを読んでいたら、茂木健一郎さんのことが書かれていた。
茂木健一郎さんのことを、僕は勝手に認知科学の研究者だと思っているのだけれど、ソニーのクオリアプロジェクトなんかをはじめとして活動の幅が広範囲なので、まあこれは偏った認識なんだと思う。誰かが寺山修司を評して、「彼のことを作家なのか詩人なのかなどと聞かれても、寺山修司は寺山修司だとしかいいようがない」と言っていたけれど、これにならって茂木さんは茂木さんだと納得することにする。もちろん、誰だって○○さんは○○さんな訳だけど。
僕は予備校に通っていた頃に、茂木健一郎さんの「脳とクオリア」という本を読んで世界観がガシャンと音を立てて変わった経験を持っています。
あの頃は昼御飯を抜いて、そのお金で一日一冊は必ず本を読んでいたので、何度か読んでいる本に吃驚させられて価値観や世界観が変わるという経験はしているはずなのですが、「脳とクオリア」ほどインパクトの強かったものはありません。
僕はその日から「この世界が本当は何でできているのか絶対に分からないのではないか」というどうしようもないもどかしさに付き纏われています。
アインシュタイン博士がどのようなニュアンスで言ったのか僕は知らないのですが
「私にとって一番の謎は、どうして人類に世界が理解できるのかということだ」
というような有名な言葉があって、でも、僕はそれに賛同することができない。
宇宙は僕たちに理解できるような形では作られていなくて、理解なんて永遠にできないのだと思う。
この世の全事象を表現する美しい方程式を導いたとしても、宇宙の果てに旗を立てたとしても、僕たちはそれでこの宇宙を「理解」したりはできないのではないだろうか。
でも、だからといって、それなら科学をやめるかというとそれは違う。
結局のところ、真理に到達しようとして科学を続けている科学者なんてそんなにいないのではないだろうか、という気もする。
もしかしたら、科学の進歩というのは真理に近づくベクトルなんて全然持ってはいなくて、実は同じ地面の上をくるくると、あるいは右左となんだかうろうろしているだけの事なのかもしれないけれど、人間というのは結構そういったことが好きなんじゃないかと思うのです。誰も本当に本気で「最終的なもの」を指向してはいなくて、例え同じところをグルグルしているとしても、「それはそれ」と妙に納得できる生命体なのではないでしょうか。
ヴィトゲンシュタインが「”思考可能な事”と”思考不可能な事”の境界すら人間には分からない。なぜならその境界を知るには”思考不可能な事を思考する必要があるから(そうじゃないと、あと一歩行くとこの先は思考できなくなるな、という判断が下せない。あと一歩を仮に踏み出してみるには思考が必要だから)」というようなことを言っていて、それを聞いたとき一瞬、閉塞感を感じはしたけれど、絶望的な気分にはならなかった。
もしかしたら心のどこかで、僕がこのロジックを素直に受け入れる事ができないのかもしれないけれど、もしもこれが正しいとしても人間というのはどうにかして”思考不可能なこと”を思考するようになるのではないかと思えて仕方ないのです。
なんというか、僕たちは例え同じ地面の上をぐるぐるしていても、やがて季節が巡ればそこには花が咲いたり、果実が実ったりするのだという期待を心のどこかに抱き続けるのだと思う。
これは、いつか僕たちが「世界」を「理解」するのではないか、という淡い期待ではなくて、『「いつか」「僕たち」は「世界」を「理解」するのではないか』という希望のことだと思います。
茂木健一郎さんのことを、僕は勝手に認知科学の研究者だと思っているのだけれど、ソニーのクオリアプロジェクトなんかをはじめとして活動の幅が広範囲なので、まあこれは偏った認識なんだと思う。誰かが寺山修司を評して、「彼のことを作家なのか詩人なのかなどと聞かれても、寺山修司は寺山修司だとしかいいようがない」と言っていたけれど、これにならって茂木さんは茂木さんだと納得することにする。もちろん、誰だって○○さんは○○さんな訳だけど。
僕は予備校に通っていた頃に、茂木健一郎さんの「脳とクオリア」という本を読んで世界観がガシャンと音を立てて変わった経験を持っています。
あの頃は昼御飯を抜いて、そのお金で一日一冊は必ず本を読んでいたので、何度か読んでいる本に吃驚させられて価値観や世界観が変わるという経験はしているはずなのですが、「脳とクオリア」ほどインパクトの強かったものはありません。
僕はその日から「この世界が本当は何でできているのか絶対に分からないのではないか」というどうしようもないもどかしさに付き纏われています。
アインシュタイン博士がどのようなニュアンスで言ったのか僕は知らないのですが
「私にとって一番の謎は、どうして人類に世界が理解できるのかということだ」
というような有名な言葉があって、でも、僕はそれに賛同することができない。
宇宙は僕たちに理解できるような形では作られていなくて、理解なんて永遠にできないのだと思う。
この世の全事象を表現する美しい方程式を導いたとしても、宇宙の果てに旗を立てたとしても、僕たちはそれでこの宇宙を「理解」したりはできないのではないだろうか。
でも、だからといって、それなら科学をやめるかというとそれは違う。
結局のところ、真理に到達しようとして科学を続けている科学者なんてそんなにいないのではないだろうか、という気もする。
もしかしたら、科学の進歩というのは真理に近づくベクトルなんて全然持ってはいなくて、実は同じ地面の上をくるくると、あるいは右左となんだかうろうろしているだけの事なのかもしれないけれど、人間というのは結構そういったことが好きなんじゃないかと思うのです。誰も本当に本気で「最終的なもの」を指向してはいなくて、例え同じところをグルグルしているとしても、「それはそれ」と妙に納得できる生命体なのではないでしょうか。
ヴィトゲンシュタインが「”思考可能な事”と”思考不可能な事”の境界すら人間には分からない。なぜならその境界を知るには”思考不可能な事を思考する必要があるから(そうじゃないと、あと一歩行くとこの先は思考できなくなるな、という判断が下せない。あと一歩を仮に踏み出してみるには思考が必要だから)」というようなことを言っていて、それを聞いたとき一瞬、閉塞感を感じはしたけれど、絶望的な気分にはならなかった。
もしかしたら心のどこかで、僕がこのロジックを素直に受け入れる事ができないのかもしれないけれど、もしもこれが正しいとしても人間というのはどうにかして”思考不可能なこと”を思考するようになるのではないかと思えて仕方ないのです。
なんというか、僕たちは例え同じ地面の上をぐるぐるしていても、やがて季節が巡ればそこには花が咲いたり、果実が実ったりするのだという期待を心のどこかに抱き続けるのだと思う。
これは、いつか僕たちが「世界」を「理解」するのではないか、という淡い期待ではなくて、『「いつか」「僕たち」は「世界」を「理解」するのではないか』という希望のことだと思います。