書評『暇と退屈の倫理学』國分功一郎:環世界を誤解していたこと

 「暇と退屈の倫理学」という國分功一郎さんの本を、去年の暮れに友達が貸してくれて、面白く読みました。
 その本の途中に「環世界」の話が出てきます。
 文脈としては、ハイデッカーの退屈論は「人間は環世界を持たない(閉じ込められていない)」ことに依存しているが、それは間違っている、人は環世界を持っている、ただ、ある環世界から他の環世界への移動能力が高いのだ、故にハイデッカーの退屈論はこう批判される、という感じだったと思います。

 ここで、僕は「環世界」という言葉の取り扱いに悩まされました。

 「環世界」という言葉は元々知っていて、馴染みのあるものだったのですが、どうやら僕はこの言葉を誤解していたようなのです。
 この言葉は、それぞれの生き物が世界(周囲の環境)を認識するときの、それぞれ固有の認識の仕方(世界観の組み立て方)を表しています。最初に環世界という言葉を使い出したのはユクスキュルというドイツ人の生物学者で、彼は例としてある種のダニを取り上げます。

 そのダニは、じっと木の枝なんかにぶら下がっていて、それで人やイヌなんかの動物が下を通りかかると落ちて取り付いて、そして吸血するわけです。枝で待って、落ちて、吸血。至ってシンプルに。
 ところが、これを「ダニが枝から人に落ちて血を吸った」と表現するのは、あくまで人間のすることであって、ダニ本人にとってはそういうことは起こっていない。
 なぜなら、そのダニには目も耳もないからだ。
 ただ、ダニは嗅覚と温度感覚、触覚だけを持っている。
 したがって、僕達が「視覚」を頼りに創り上げた「空間」も「木」も「人」も「イヌ」も、そういうものは何にもダニの世界にはない。ダニは枝にしがみついているとか、人の上に落ちたとか、そういうことを一切「思わない」し「思えない」。
 彼らはただ「臭がしたので手を離し」「皮膚の温度を感じたので血を吸う」だけだ。
 彼らはそういう世界を生きている。僕達には想像すらできないような世界を。

 それをダニの「環世界」というのだ、と長らく思っていたのだけど、どうやら僕の勘違いかもしれません。

 僕がはじめて環世界という言葉を聞いたのは、たぶん日高敏隆さんの本の中でだと思います。
 日高さんは日本の動物行動学の草分け的な方で、ユクスキュルが環世界を紹介した『生物から見た世界』の翻訳もされていますし、本もたくさん書かれました。
 僕が一番良く覚えているのは、「モンシロチョウはどうやってオスメスを見分けているのか」という話です。
 当時、モンシロチョウも昆虫だし、まあ雌雄はフェロモンで見分けてるんでしょ、みたいな感じで理解されていたらしいのですが、日高さんの観察によれば「それにしてはかなり遠くからでも見分けてるけどなあ?」ということでした。
 そこで、日高さんはモンシロチョウの雌雄を「紫外線にも感度のある写真」で撮ってみます。
 結果は「メスはそのまま白いけれど、オスは真っ黒」でした。
 真っ黒というのは、つまり紫外線が感光したということで謂わば「紫外線色」です。
 僕たち人間には紫外線は見えませんが、モンシロチョウには紫外線は見えます。
 だから、モンシロチョウが雌雄を見分けるのは、モンシロチョウにとっては明々白々に簡単なことで、オスとメスは色が全然違うわけです。フェロモンも何にも持ち出すまでもなく。
 モンシロチョウは紫外線が構成要素に含まれる「環世界」を生きていて、人間はそうではない。
 チョウと人は全く別の環世界を生きている。

 僕の「環世界」という概念の理解は、チョウの例のように、あくまで「その種固有の知覚器官に依存したもの」でした。  
 紫外線を見るチョウの環世界、超音波で”見る”コウモリの環世界、光のない洞窟の中にだけいる昆虫の世界。
 環世界は種別にあるもので、同種であれば、同等の知覚器官を持つ者同士であれば、環世界は同じだと思っていたのです。

 ところが、『暇と退屈の倫理学』における環世界の取り扱いを読んで見るに、そこでは「宇宙物理学を学ぶ前後」「タバコを吸う前後」などで「環世界は異なる」とされていたのです。
 つまり、持っている知識や置かれている状況によって「環世界は異なる」と。
 
 僕はここで「えっ?そんな勝手な解釈許されるのか?」となってしまい、そのあとは國分さんの主張を恐る恐る読む感じになったのですが、先日読んだある記事に日高さんが「木こりが木を見るのと、女の子が木を見るのでは、同じ木を見ても見え方が違う」みたいな話を書いていらしたので、どうやら環世界をいう言葉はそういうものらしいのです。

 持てる知識、経験、状況なんかで「世界の見え方、感じ方」が変わることは良く解ります。
 どうやら、それも「環世界」だということです。
 僕が勝手に狭義の解釈をしていただけなのですが、なんとなく「知覚依存」と「知識経験依存」を両方一括りで環世界と呼んでいいのかどうか府に落ちません。
 包含関係が、「知覚依存」⊂「知識経験依存」なので、一括りにするのは全く問題ないわけですが、両方を一緒にするのであれば話は「各自が各自で刻一刻と変化するそれぞれの世界を生きている」という、なんともざっくりした当然で扱いに困る帰結だけが導かれるように思います。

 そうか、だからここで國分さんは「環世界移動自由度」というパラメータを導入するのか。

 もしかしたら、本の批判が成立するのではないかという予感と共にこれを書きだしたのですが、逆に納得する形になりました。

暇と退屈の倫理学
國分功一郎
朝日出版社


生物から見た世界 (岩波文庫)
リエーター情報なし
岩波書店