書評『暇と退屈の倫理学』國分功一郎:単独で完結する歓喜としての進化
1811年から17年に掛けて、イギリスでラッダイト運動というものがあったらしい。
機械に職を奪われることを恐れた労働者達が、機械を破壊するというものだ。テクノロジーの普及が職を奪うというのは現代でも良く聞かれる話だが、こんな運動が200年も前に起こっていたなんて驚くばかりだ。とは言え、イギリスでの産業革命は1760年代から進行(1770年代後半からワットの蒸気機関は実用化)しているので、労働に機械が投入されるようになってから、ラッダイト運動までは半世紀あったことになる。もしも、人が機械にある種の敵意を覚えるのだとしたら、50年というのは十分な時間だったのかもしれない。そして、現代はさらにそのまま200年経過した未来ということになる。
既に工業化された世界で育った僕達にとって、200年も昔の人達が、当時の「素朴な」機械に労働を奪われると考えたのは、あまりピンと来ることではない。今のテクノロジーを持ってしても、まだまだ機械が人間の代わりをできない労働は山のようにあるからだ。
でも、そう思うのは何かの「基準」のようなものが、既に僕の中で破壊されているせいなのかもしれない。僕は、基本的には科学少年として育ち、博士課程まで工学部にいたので、当然の如く科学技術が大好きだ。科学が世界を救うとも思っていた。社会には多種多様な問題が存在しているけれど、その大半は、ほとんどはテクノロジーの進歩が解決すると思っていた。労働という側面に限定して言うと、全ての労働は高度なテクノロジーが人間の代わりにするようになり、人はただ毎日楽しんでいればいいようになるだろうと思っていた。
だけど、現実には人の喜びと労働というものは切り離すことのできない関係になっている。自分で釣った魚はおいしいし、自分で作ったご飯はおいしいし、掃除をしたら気持ちいいし、息を切らして山に登ったら気持ちいいし。
僕達は、面倒くさいことをしなければ喜びを得られない、という面倒さを持っている。
これは、科学が世界を救うと信じていた人間の、それが誤解に過ぎなかったという懺悔ではなくて、科学の発展というのが本当に「発展の先にあるもの」を目指しているのだろうか、という話です。
以前、http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/efcdf60ca49d9898208f055654a9abad という記事にも書いたのですが、僕は目の前にある道具を改良してしまいます。これは人のかなり本能的な欲求だと思います。そして、もちろん改良した物の便利さを味わうことは喜びです。
しかし、僕達の感じる「喜び」は、実は改良した物の「便利さ」の中にあるのではなく、「前より一歩使い安さがアップした」という差分の中にあるのではないかと思う。一歩前進すること自体の中に。
科学とか改良とかテクノロジーとかをごちゃ混ぜにしてしまっているけれど、僕達はなんだって大抵最終目標なんて持たずにやっていて、持っていても実は最終目標は一応設定しているだけなのは、人生が最終目標を持ち得ない謎の何かである以上明らかだとも言えます。
パスカルが何かの本に「ウサギ狩りに行く人にウサギを上げてみなさい、喜ばれるより嫌がられるよ、だってその人は”ウサギ”が欲しいんじゃなくて”暇潰しにウサギ狩りがしたい”んだから、ウサギあげちゃったらウサギ狩りに行けなくなっちゃうじゃん。くっくっく」みたいなことを書いているらしい(國分功一郎「暇と退屈の倫理学」より)。
くっくっく、とかそういうのは僕の超訳ですが、このパスカルの話にもう少し説明を加えると、パスカルの議論の立脚点は、
「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋でじっとしていられないから起こる。じっとしてれば良いのにできない、それでわざわざ不幸を招いている」
という考え方にあります。
なんともヤな人ですね。
それでも、人がじっと退屈していられないのは事実です。パスカルによれば、「我々は退屈したくない」→「暇潰ししたい」→「ウサギ狩り」ということであり、「ウサギが必要」→「ウサギ狩り」ということではありません。人は暇潰しにウサギ狩りに行く。目的は暇潰しであってウサギではない。でも暇潰しが目的だなんて自分でも思いたくないので目的はウサギだと自分で自分を騙している。もちろん、現実に食べ物がなくてウサギを取ってくる必要がある場合もあるでしょうが、それは言い訳が一層厚くなるということです。
科学技術の進歩も、必要だとか実用化だとかにではなく、結局は進歩それ自体に喜びがあるのだろうなと思います。
もともと「やる気、というのは結構な部分が企業化社会の幻想ではないか、やる気がある人が採用されるから、いつの間にかやる気という謎の信仰ができあがったのではないか」という話を書くつもりでラッダイト運動の話から工業化→企業化と繋ぐつもりだったのが、完全に違う話になりました。
機械に職を奪われることを恐れた労働者達が、機械を破壊するというものだ。テクノロジーの普及が職を奪うというのは現代でも良く聞かれる話だが、こんな運動が200年も前に起こっていたなんて驚くばかりだ。とは言え、イギリスでの産業革命は1760年代から進行(1770年代後半からワットの蒸気機関は実用化)しているので、労働に機械が投入されるようになってから、ラッダイト運動までは半世紀あったことになる。もしも、人が機械にある種の敵意を覚えるのだとしたら、50年というのは十分な時間だったのかもしれない。そして、現代はさらにそのまま200年経過した未来ということになる。
既に工業化された世界で育った僕達にとって、200年も昔の人達が、当時の「素朴な」機械に労働を奪われると考えたのは、あまりピンと来ることではない。今のテクノロジーを持ってしても、まだまだ機械が人間の代わりをできない労働は山のようにあるからだ。
でも、そう思うのは何かの「基準」のようなものが、既に僕の中で破壊されているせいなのかもしれない。僕は、基本的には科学少年として育ち、博士課程まで工学部にいたので、当然の如く科学技術が大好きだ。科学が世界を救うとも思っていた。社会には多種多様な問題が存在しているけれど、その大半は、ほとんどはテクノロジーの進歩が解決すると思っていた。労働という側面に限定して言うと、全ての労働は高度なテクノロジーが人間の代わりにするようになり、人はただ毎日楽しんでいればいいようになるだろうと思っていた。
だけど、現実には人の喜びと労働というものは切り離すことのできない関係になっている。自分で釣った魚はおいしいし、自分で作ったご飯はおいしいし、掃除をしたら気持ちいいし、息を切らして山に登ったら気持ちいいし。
僕達は、面倒くさいことをしなければ喜びを得られない、という面倒さを持っている。
これは、科学が世界を救うと信じていた人間の、それが誤解に過ぎなかったという懺悔ではなくて、科学の発展というのが本当に「発展の先にあるもの」を目指しているのだろうか、という話です。
以前、http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/efcdf60ca49d9898208f055654a9abad という記事にも書いたのですが、僕は目の前にある道具を改良してしまいます。これは人のかなり本能的な欲求だと思います。そして、もちろん改良した物の便利さを味わうことは喜びです。
しかし、僕達の感じる「喜び」は、実は改良した物の「便利さ」の中にあるのではなく、「前より一歩使い安さがアップした」という差分の中にあるのではないかと思う。一歩前進すること自体の中に。
科学とか改良とかテクノロジーとかをごちゃ混ぜにしてしまっているけれど、僕達はなんだって大抵最終目標なんて持たずにやっていて、持っていても実は最終目標は一応設定しているだけなのは、人生が最終目標を持ち得ない謎の何かである以上明らかだとも言えます。
パスカルが何かの本に「ウサギ狩りに行く人にウサギを上げてみなさい、喜ばれるより嫌がられるよ、だってその人は”ウサギ”が欲しいんじゃなくて”暇潰しにウサギ狩りがしたい”んだから、ウサギあげちゃったらウサギ狩りに行けなくなっちゃうじゃん。くっくっく」みたいなことを書いているらしい(國分功一郎「暇と退屈の倫理学」より)。
くっくっく、とかそういうのは僕の超訳ですが、このパスカルの話にもう少し説明を加えると、パスカルの議論の立脚点は、
「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋でじっとしていられないから起こる。じっとしてれば良いのにできない、それでわざわざ不幸を招いている」
という考え方にあります。
なんともヤな人ですね。
それでも、人がじっと退屈していられないのは事実です。パスカルによれば、「我々は退屈したくない」→「暇潰ししたい」→「ウサギ狩り」ということであり、「ウサギが必要」→「ウサギ狩り」ということではありません。人は暇潰しにウサギ狩りに行く。目的は暇潰しであってウサギではない。でも暇潰しが目的だなんて自分でも思いたくないので目的はウサギだと自分で自分を騙している。もちろん、現実に食べ物がなくてウサギを取ってくる必要がある場合もあるでしょうが、それは言い訳が一層厚くなるということです。
科学技術の進歩も、必要だとか実用化だとかにではなく、結局は進歩それ自体に喜びがあるのだろうなと思います。
もともと「やる気、というのは結構な部分が企業化社会の幻想ではないか、やる気がある人が採用されるから、いつの間にかやる気という謎の信仰ができあがったのではないか」という話を書くつもりでラッダイト運動の話から工業化→企業化と繋ぐつもりだったのが、完全に違う話になりました。
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