伊勢神宮
ちょうど1週間前の日曜日、伊勢神宮を参拝してきました。小学校で行った修学旅行以来なので、伊勢に足を踏み入れたのは実に18年ぶりということになります。
ちなみに僕が通っていた小学校は京都にあって、修学旅行は奈良で大仏などを見た後、そのまま伊勢まで行って宿泊、翌日夫婦岩だとか水族館だとか伊勢神宮を見て帰ってくる、というたった一泊二日の短いもので、小学校の修学旅行なんてそんなものだろうと思っていたら、少し下の世代ではそうでもないようですね。京都から奈良って近すぎでしょ、と言われました。
記憶の中に、伊勢神宮はほとんど残っていなくて、単に砂利の上をみんなでぞろぞろと歩いたこと、川と橋があったことしか覚えていない。神社そのものに関してはほとんど何も覚えていないと言って過言ではない。
先週、伊勢神宮を訪れて、小学生のときの自分の感受性の低さに愕然としました。こんなものすごいところへ来たのに何に記憶もないなんて。
伊勢神宮は僕にとって「日本」でした。雰囲気が神聖であるだけでなく、その造形の美しさは衝撃的です。シンプルだし質素だし、なんてことないのにもうものすごい。大きな木々に囲まれて、シンと立つ社は何かとても静かな長い呼吸のように見えた。どうしても古代の日本に思い馳せないわけにはいかない。かつてこの国にはもっと沢山の、巨大な樹樹が生い茂り、人はその中で暮らしていた。勝手な想像に過ぎないけれど、その時代が見えるようだった。日本とか倭という言葉をとても強く意識した。ここは日本だ。まるで日本の伝統代表みたいな京都は、ここに比べれば日本より中国にまだ近いような気がした。僕の中での日本という言葉における基準点は、伊勢を一目見た瞬間に書き替わった。
外宮、内宮の順に回ったのですが、外宮ですでに大きなインパクトを受けていたせいか、内宮ではそれほどの衝撃は感じなかった。でも共にとても力のある神社だということは確かだった。毎年参拝してもいいくらいだ。
僕は今まで神社で二拝二拍一拝をしたことがなかったけれど、ここでは自然にそうしていて、鳥居をくぐるときにもお辞儀をした。とても沢山の人がそうしていて、僕はそういった神社を見たことがなかったので、改めて日本人の信仰というものを考えた。
僕と神道の一番大きな接点は、今まで何度も簡単に済ませてきた神社の参拝でも、日々の無自覚なアミニズムでもなく、たぶん合気道だろう。
合気道は開祖植芝盛平先生が神道に熱心だったので、ものすごく強く神道の影響を受けている。他のいくつかの武道でもするように、道場に出入りするときは道場に礼をするし、道場には神棚があって、稽古前には祝詞を上げるし、合宿では冷水で禊もするし、鍛錬の名前もフリダマとかアマノトリフネとか意味ありげな名前が付いている。
告白すると、僕は当時これらのことをバカらしいと思ってしなかった。誰もいない道場に一礼したり、神棚だって別にただの飾りだし、禊も仕方なくしたけれど無意味だと思っていた。それは合気道という武術にテクニック以上のものを求めていなかったからだ。
今では自分がとても未熟で浅はかだったと思う。
合気道と神道のこと、あるいはその思想的なことはまた後日書きたいと思う。