殺して食べること。
先日、殺されるイルカたちに関しての動画だけをアップしましたが、今日は少しだけそれに関連したことを書いておきたいと思う。
まず、イルカの動画はmixiニュースで「シー・シェパード」の記事から飛んだ日記で見つけました。mixiアカウントをお持ちの方は http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1385000932&owner_id=1655849 からその日記を読むことができます。シー・シェパードは結構流行っている言葉だし、この日記にもたくさんのコメントが付いています。なんというか、インターネットでこの手の話をしたとき、話題に上げたときに言われそうなことが大体は言われていました。
こういうことは議論して答えが出る問題ではありません。だから、すべての理屈は何かを守るために無理やりくっつけられたデコレーションでしかない。こういう問題について話すとき、相手の些細な間違いや無知につけ込んだりして強い口調で何かを断言する人は、単に誰かを攻撃したいという欲求を発散しているに過ぎないのだろうなと思います。昔ローリングストーンズが歌っていたみたいに。
僕たちがこういう話をするとき、その礎にすることができるのはデータでも論理でもなく、自分の感覚と感情だけです。そこから導き出される理想的なゴールがあって、そのバリアをどういう風にクリアするのか、あるいはどこで妥協して折り合いを付けるのかという時にだけデータと論理は機能する。出発地点が高々自分の感情に過ぎないということは忘れない方がいいと思います。
そして、僕たちは自分の感じ方や感情以外のものを拠り所にして生きることはできません。生きることはできるかもしれないけれど、それでハッピーに生きることはできない。
先に僕がこういった「動物を殺して食べる」という事象についてどのような思いを持っているか書いて置きます。
僕は自分では魚介類までの生き物なら殺して食べたことがある。でもそれより大きく高等(生物学的な意味合いで。念の為)な生き物を殺して食べたことはないし、たぶん僕にはそれはできないと思う。間接的には食べて来たけれど、実際にお腹が空きました、目の前に豚がいます、どうぞ自由に殺して召し上がって下さい、という状況になっても、僕は殺さないと思う。代わりに食べ物を探しに他の所へ行くだろう。無論、余程の極限状態になったときはどうするか分からない。生き延びるために目の前の豚を殺す以外の道がないのなら殺すように思うけれど、もしかしたら自分の生の方を諦めるかもしれないとも微かに思う。こればかりは本当に分からない。
僕はできることなら動物を殺したくない。殺される動物が少ない方がいいと思う。
弱肉強食は自然の摂理だというけれど、じゃあその自然がダメなんだと思う。僕はとてもじゃないけれど生き物が殺し合わなければ維持できない自然を素敵だとは思えない。自然の摂理だ、の一言で何もかも片付ける人は、自分がどうして「自然」を基準に採用したのか言えるだろうか。
文化だという人も同じだ。はっきり言って文化なんて言葉はどうだっていい。残したいものは残せばいいし、残したくないものは止めればいい。僕たちが今ここで決めればいい。代々受け継がれてきたからって何でも残すのが良いわけじゃない。昔アフリカの女性器切除文化のことを書いたけれど、それで死んだり苦しんだりする女の子がたくさんいるなら文化だって名前つけて守るのは愚の骨頂だ。祖先がやってきたからって僕らは何でも同じようにして良いわけじゃない。文化というのは惰性のことではないし、もしも本当に文化という言葉が価値を持つとすれば、それは長い年月の取捨選択を経てきた故のことで、全部とりあえず捨てません、ということなら文化という言葉は価値を持ち得ない。つまり文化を文化というレッテル故に守るというのは既に論理破綻しているわけです。
国際法もどうでもいい。国際法で禁止だろうがOKだろうか、そんなの殺される命には関係がない。僕たちは法律でこれこれの生き物は殺してもいいです、みたいなことを決めることは本来できない。
だから、自然とか文化とか法律を根拠にして話を始める人の言う事はそれこそ空論だ。
人は何をしてもいい。行動を制限する論拠はこの世界に存在しない。殺人も戦争もなんだってありだ。ただ、僕はそれらを嫌だと思う。どうしてかは知らないけれどそう思う。動物を殺すのも、動物が殺されるのも嫌だ。ここからしかスタートできないし、だから相手を説得することもできない。僕にできるのは頼むことと、嫌々やっている人に他の選択肢を差し出すことと、強制力を持つこと、マジョリティを形成することだけだ。
僕は動物を殺して食べることに関して、それが嫌だと思っても、それほど大きなコストは割けない。イヌイットに会いに言って、もっと暖かい色々な食べ物のあるところに移住してアザラシを殺すのはやめて下さい、なんて頼むことはできない。それどころか肉だって口にする。ただこうして思うところを書き出すばかりだ。
まず、イルカの動画はmixiニュースで「シー・シェパード」の記事から飛んだ日記で見つけました。mixiアカウントをお持ちの方は http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1385000932&owner_id=1655849 からその日記を読むことができます。シー・シェパードは結構流行っている言葉だし、この日記にもたくさんのコメントが付いています。なんというか、インターネットでこの手の話をしたとき、話題に上げたときに言われそうなことが大体は言われていました。
こういうことは議論して答えが出る問題ではありません。だから、すべての理屈は何かを守るために無理やりくっつけられたデコレーションでしかない。こういう問題について話すとき、相手の些細な間違いや無知につけ込んだりして強い口調で何かを断言する人は、単に誰かを攻撃したいという欲求を発散しているに過ぎないのだろうなと思います。昔ローリングストーンズが歌っていたみたいに。
僕たちがこういう話をするとき、その礎にすることができるのはデータでも論理でもなく、自分の感覚と感情だけです。そこから導き出される理想的なゴールがあって、そのバリアをどういう風にクリアするのか、あるいはどこで妥協して折り合いを付けるのかという時にだけデータと論理は機能する。出発地点が高々自分の感情に過ぎないということは忘れない方がいいと思います。
そして、僕たちは自分の感じ方や感情以外のものを拠り所にして生きることはできません。生きることはできるかもしれないけれど、それでハッピーに生きることはできない。
先に僕がこういった「動物を殺して食べる」という事象についてどのような思いを持っているか書いて置きます。
僕は自分では魚介類までの生き物なら殺して食べたことがある。でもそれより大きく高等(生物学的な意味合いで。念の為)な生き物を殺して食べたことはないし、たぶん僕にはそれはできないと思う。間接的には食べて来たけれど、実際にお腹が空きました、目の前に豚がいます、どうぞ自由に殺して召し上がって下さい、という状況になっても、僕は殺さないと思う。代わりに食べ物を探しに他の所へ行くだろう。無論、余程の極限状態になったときはどうするか分からない。生き延びるために目の前の豚を殺す以外の道がないのなら殺すように思うけれど、もしかしたら自分の生の方を諦めるかもしれないとも微かに思う。こればかりは本当に分からない。
僕はできることなら動物を殺したくない。殺される動物が少ない方がいいと思う。
弱肉強食は自然の摂理だというけれど、じゃあその自然がダメなんだと思う。僕はとてもじゃないけれど生き物が殺し合わなければ維持できない自然を素敵だとは思えない。自然の摂理だ、の一言で何もかも片付ける人は、自分がどうして「自然」を基準に採用したのか言えるだろうか。
文化だという人も同じだ。はっきり言って文化なんて言葉はどうだっていい。残したいものは残せばいいし、残したくないものは止めればいい。僕たちが今ここで決めればいい。代々受け継がれてきたからって何でも残すのが良いわけじゃない。昔アフリカの女性器切除文化のことを書いたけれど、それで死んだり苦しんだりする女の子がたくさんいるなら文化だって名前つけて守るのは愚の骨頂だ。祖先がやってきたからって僕らは何でも同じようにして良いわけじゃない。文化というのは惰性のことではないし、もしも本当に文化という言葉が価値を持つとすれば、それは長い年月の取捨選択を経てきた故のことで、全部とりあえず捨てません、ということなら文化という言葉は価値を持ち得ない。つまり文化を文化というレッテル故に守るというのは既に論理破綻しているわけです。
国際法もどうでもいい。国際法で禁止だろうがOKだろうか、そんなの殺される命には関係がない。僕たちは法律でこれこれの生き物は殺してもいいです、みたいなことを決めることは本来できない。
だから、自然とか文化とか法律を根拠にして話を始める人の言う事はそれこそ空論だ。
人は何をしてもいい。行動を制限する論拠はこの世界に存在しない。殺人も戦争もなんだってありだ。ただ、僕はそれらを嫌だと思う。どうしてかは知らないけれどそう思う。動物を殺すのも、動物が殺されるのも嫌だ。ここからしかスタートできないし、だから相手を説得することもできない。僕にできるのは頼むことと、嫌々やっている人に他の選択肢を差し出すことと、強制力を持つこと、マジョリティを形成することだけだ。
僕は動物を殺して食べることに関して、それが嫌だと思っても、それほど大きなコストは割けない。イヌイットに会いに言って、もっと暖かい色々な食べ物のあるところに移住してアザラシを殺すのはやめて下さい、なんて頼むことはできない。それどころか肉だって口にする。ただこうして思うところを書き出すばかりだ。