鴨川パーティー2009。
2009年7月24日金曜日。
前日の夜にmp3ファイル名をタグから復元して全部半角英数に変換してあったので、昼前に今夜使いそうな曲を大体選んで、それから昼に大学へ。
プロジェクターをこれも前日の夜にI君が直しておいてくれたので、まあプロジェクターくらい使おうと話をしているとスクリーンはどうしようという話になり、自然に一昨年の遺産である屋根と壁一つだけのテントを使おうかということになる。ただしフレームは3x4メートルくらいあって分解もできないので、大学から出町柳まで運ぶのはかなり骨が折れる故しばらく相談。一昨年はOにも手伝ってもらって、交通の邪魔にならないように高野川の岸を交代で担いで出町柳まで行った。今年はI君と2人で、さらに3時からMと寮で合流なので時間もないし、担いでいくのは無理な話だった。
研究室を見回してみると、台車が一台あり、そのキャスターを外してフレームに取り付けて転がして行くのはどうかとなりモンキで分解して、実際にそうする。暫定的にキャスターを針金でフレームに取り付けて、針金がゆるんだら形状の適した石を拾って楔の代わりに打ち込み3時20分頃に出町柳に到着。フレームを公園に置いてそのまま寮へ向かい、Mと合流し、僕の部屋からラップトップ、ミキサー、スピーカーなどを運び出す。3人で公園まで発電機、テーブル、DJ用の機材を運び、それからMにセッティングを任せて僕とI君でもう一度大学に戻りプロジェクターやなんかを運ぶ。
すでにクタクタ。
中洲で準備しているとき、僕達の他にも結構人がいて、僕達が外人だらけなのは兎に角、その他の人々も全員外国人の家族連れとか旅行者で、1時間くらいの間僕とI君だけが日本人で、京都だなとなんとなく思う。
大きなテントというか屋根付きスクリーン(テントじゃないけれど以後これをテントと呼びます)をみんなして設営しているとやっぱり鴨川見回り隊みたいな制服のおじさんが2人でやって来て、「責任者の方は誰ですか?こういうのは許可がいるんです」といつも通りのことを言い出す。
結局何を言っても捨て身の覚悟で暴動を起こさない限り権力には勝てないので、たかだかテントくらいでそこまで出来ない僕達はテントを壊す。考えてみればこのとき大人しく畳んでおいて、見回り隊が帰った後にまた建てればよかったのだけど、このときはどうしてかそうは思わず錘なども壊してしまう。
無駄だろうとは思ったけれど、僕は帰っていく見回り隊を追いかけて個人的にちょっと文句を言ってみた。屋根付きのスクリーンを一時的に設置するくらい禁止も何もないだろう。けれどそのしょぼくれたおじさんは僕とは目も合わせず謎の帳面に何やら書き込んで駄目と行ってさっさっと飛び石を渡っていった。
僕は理不尽だとは思いながらも丁寧な言葉使いを崩さなかったけれど、彼は目も合わせずに言葉も短く、不愉快な僕の頭の中ではあまり良くない戦略が湧き上がってきて、もちろんそんなの実行はしないけれど、久しぶりに嫌な人に会ってしまったなと思う。
見回り隊の所でのやり取りを近くで見ていた外国人の家族連れが「あの人達ごちゃごちゃうるさいし邪魔だよね」と声を掛けてくれて、僕はちょっとほっとして、それで自分でも吃驚したけれど思わず親指で首を切るジェスチャーをしていた。
こういうことはもう何度も経験しているので、いい加減に行政にちゃんと言おうと思う。どんどん何もできない街になっていく。昔消防局に言われたのは、この公園は緊急時のヘリポートだから建造物を作ってはいけない、ということだけど、見れば1分も掛らずに撤去できる物であることは分かると思うし、それでも遅いというならもう公園の中は、老人、子供など足の遅い人は立ち入り禁止、いやいっそのこと全面的に立ち入り禁止で緊急時のヘリ着陸の為にずっと空けて置けばいい。
これは鴨川に関する条例だけではないけれど、法律が持つ問題の一つは現場を見張る人にあまり判断能力がない、あるいは権限がないということだ。条例を作った人の意図というのはすっかり忘れ去られて、明文化されたものにわけも分からず追従するだけなので、現場では全く融通が利かない。そうして誰かが喜び誰も困らないという行為すら禁止されて、誰も納得しないけれど、でも昔の人が作った法律で決まっているから仕方がないという形で無意味なパワーが行使される。文句を言ったところで「私にはその権限はない」という言い方で責任が先送りされ、それがトップまで行ったところで「法律で決まっているから」と最終的な責任が人ではなく文章に落とし込まれて終わる。昔の誰が書いた文章が今生活する人々よりも重んじられる。こういうのを村上春樹はエルサレムスピーチで「システム」と呼んだ。
日が暮れて、人が集まり。光源でもあるテントがないので随分くらい中、喋ったり飲んだりして(あまり踊ってくれなかった)、電球も一つしかないし、せめて適当なスクリーンを作ってプロジェクターで適当なDVDでも流しておけばまだ明るくなるんじゃないかと思いHちゃん達に頼んでツタヤでDVDを借りてきてもらう。
不思議なことにHちゃん達がエッシャーのDVDを借りて戻ってきて、机の前で小さく映像を投影し始めると、それまで唯一の光源だった電球がお役御免とばかりに切れた。
Pがアサヒの蓋が閉まる缶ビールをまじまじ見ているのでどうしたのかと聞くと、この蓋ができるアルミ缶は作るのが本当はすごく難しくて、ヨーロッパでも開発プロジェクトがあったんだけど結局うまく行かなかったんだよ、それを日本は作って普通に売ってるからすごい、と言う。そうだったのか。
Yちゃんがサプライズで現れてポテトチップをくれる。結局僕はこの日荷物を運ぶ前にチョコバーを食べて、その後おにぎりを一つ食べ、お菓子を抓んだだけで、他はスイカだとかアイスクリームしか食べなかった。夜中に片付けが終わって帰る途中Tがラーメンに誘ってくれたけれどやっぱりアイスクリームを食べてしまう。
何時に撤収を始めたか良く覚えてないけれど、みんなでばーっと片付けてみんなで運んでもらったので寮に運ぶ物は簡単に片付いた。寮で解散して、そのあと、僕とTとI君の3人は大学までテントのフレームを運ぶ。今度はTがとても丈夫にキャスターを付けてくれたので昼間に比べて驚くほど軽快にフレームを運ぶことが出来た。
部屋に戻ってシャワーを浴びて、疲れすぎてか眠れないのでペーパーバックを読みながら眠る。
2009年7月25日土曜日。
午前中から二時半まで大雨。昨日動き回ったのにご飯を碌に食べていないのでご飯を炊いて食べる。
昨日使った発電機はMが「任せて発電機ならある」というので任せていたら南区なんて遠いところから借りてきたものだった。言ってくれれば古いけれど僕も一応は発電機を持っているし、借りるにしてももっと近所に借りれるお店があるのに、と思っていると、昨日のパーティーの終わりごろ「実は問題があって、今日夜中の2時半から直島に向かって旅立つから、もしも良ければ明日発電機返してきてくれないか」と言う。よければも何も、僕達2人がこのパーティーの首謀で、それでMが借りて来たわけだから、彼が行けないとなると僕が返しに行くしかない。いつもかなり献身的なMが確信犯的なことをするので吃驚した。もしかしたら僕の英語がまずかったのかと思ったけれど、いくらなんでもそんなの聞き間違えないだろうし、フレンチスタイルなんだろうか。
I君と出町柳で待ち合わせをして、少し遅れて駅へ向かっているとI君から電話が掛かってきて「悪いけれど死にそうにお腹が痛いから帰る」とのこと。
「いいよ、お大事に」と電話を切った物の、片手では持ち上げるのがやっとの発電機と、その他にリールコードを持って一人で階段を上り下りしたり電車に乗ったりするのはかなり大変なことだった。
誰か他に助けを呼ぼうかとも思ったけれど、もうお店の閉店時間まで1時間半くらいしかなくて、今空いてそうで、すぐに出町まで来れるような人でないと駄目で、そんな人は思いつかなかった。僕は目の前のタクシーロータリーで、ここからそのお店までタクシーで行くといくら掛るのか聞いてみることにした。
そのとき、ちょうど目の前に一台のタクシーが止まって家族連れを降ろしたので、運転手さんに値段を聞き、3000円くらいだと言うので乗ることにする。結果的にこの運転手さんが大正解だった。
まず、カーナビ。店はものすごく辺鄙なところにあったのでナビがないと辿り着くのに困難があったと思う。ナビの無いタクシーも多いから良かった。
さらに親切な運転手さんで、帰りに途中まで只で乗せて貰えた。それから話も上手かった。
そのあと天神祭りに急に行くことになって、人ごみの中、ビルの陰から花火を見上げる。
前日の夜にmp3ファイル名をタグから復元して全部半角英数に変換してあったので、昼前に今夜使いそうな曲を大体選んで、それから昼に大学へ。
プロジェクターをこれも前日の夜にI君が直しておいてくれたので、まあプロジェクターくらい使おうと話をしているとスクリーンはどうしようという話になり、自然に一昨年の遺産である屋根と壁一つだけのテントを使おうかということになる。ただしフレームは3x4メートルくらいあって分解もできないので、大学から出町柳まで運ぶのはかなり骨が折れる故しばらく相談。一昨年はOにも手伝ってもらって、交通の邪魔にならないように高野川の岸を交代で担いで出町柳まで行った。今年はI君と2人で、さらに3時からMと寮で合流なので時間もないし、担いでいくのは無理な話だった。
研究室を見回してみると、台車が一台あり、そのキャスターを外してフレームに取り付けて転がして行くのはどうかとなりモンキで分解して、実際にそうする。暫定的にキャスターを針金でフレームに取り付けて、針金がゆるんだら形状の適した石を拾って楔の代わりに打ち込み3時20分頃に出町柳に到着。フレームを公園に置いてそのまま寮へ向かい、Mと合流し、僕の部屋からラップトップ、ミキサー、スピーカーなどを運び出す。3人で公園まで発電機、テーブル、DJ用の機材を運び、それからMにセッティングを任せて僕とI君でもう一度大学に戻りプロジェクターやなんかを運ぶ。
すでにクタクタ。
中洲で準備しているとき、僕達の他にも結構人がいて、僕達が外人だらけなのは兎に角、その他の人々も全員外国人の家族連れとか旅行者で、1時間くらいの間僕とI君だけが日本人で、京都だなとなんとなく思う。
大きなテントというか屋根付きスクリーン(テントじゃないけれど以後これをテントと呼びます)をみんなして設営しているとやっぱり鴨川見回り隊みたいな制服のおじさんが2人でやって来て、「責任者の方は誰ですか?こういうのは許可がいるんです」といつも通りのことを言い出す。
結局何を言っても捨て身の覚悟で暴動を起こさない限り権力には勝てないので、たかだかテントくらいでそこまで出来ない僕達はテントを壊す。考えてみればこのとき大人しく畳んでおいて、見回り隊が帰った後にまた建てればよかったのだけど、このときはどうしてかそうは思わず錘なども壊してしまう。
無駄だろうとは思ったけれど、僕は帰っていく見回り隊を追いかけて個人的にちょっと文句を言ってみた。屋根付きのスクリーンを一時的に設置するくらい禁止も何もないだろう。けれどそのしょぼくれたおじさんは僕とは目も合わせず謎の帳面に何やら書き込んで駄目と行ってさっさっと飛び石を渡っていった。
僕は理不尽だとは思いながらも丁寧な言葉使いを崩さなかったけれど、彼は目も合わせずに言葉も短く、不愉快な僕の頭の中ではあまり良くない戦略が湧き上がってきて、もちろんそんなの実行はしないけれど、久しぶりに嫌な人に会ってしまったなと思う。
見回り隊の所でのやり取りを近くで見ていた外国人の家族連れが「あの人達ごちゃごちゃうるさいし邪魔だよね」と声を掛けてくれて、僕はちょっとほっとして、それで自分でも吃驚したけれど思わず親指で首を切るジェスチャーをしていた。
こういうことはもう何度も経験しているので、いい加減に行政にちゃんと言おうと思う。どんどん何もできない街になっていく。昔消防局に言われたのは、この公園は緊急時のヘリポートだから建造物を作ってはいけない、ということだけど、見れば1分も掛らずに撤去できる物であることは分かると思うし、それでも遅いというならもう公園の中は、老人、子供など足の遅い人は立ち入り禁止、いやいっそのこと全面的に立ち入り禁止で緊急時のヘリ着陸の為にずっと空けて置けばいい。
これは鴨川に関する条例だけではないけれど、法律が持つ問題の一つは現場を見張る人にあまり判断能力がない、あるいは権限がないということだ。条例を作った人の意図というのはすっかり忘れ去られて、明文化されたものにわけも分からず追従するだけなので、現場では全く融通が利かない。そうして誰かが喜び誰も困らないという行為すら禁止されて、誰も納得しないけれど、でも昔の人が作った法律で決まっているから仕方がないという形で無意味なパワーが行使される。文句を言ったところで「私にはその権限はない」という言い方で責任が先送りされ、それがトップまで行ったところで「法律で決まっているから」と最終的な責任が人ではなく文章に落とし込まれて終わる。昔の誰が書いた文章が今生活する人々よりも重んじられる。こういうのを村上春樹はエルサレムスピーチで「システム」と呼んだ。
日が暮れて、人が集まり。光源でもあるテントがないので随分くらい中、喋ったり飲んだりして(あまり踊ってくれなかった)、電球も一つしかないし、せめて適当なスクリーンを作ってプロジェクターで適当なDVDでも流しておけばまだ明るくなるんじゃないかと思いHちゃん達に頼んでツタヤでDVDを借りてきてもらう。
不思議なことにHちゃん達がエッシャーのDVDを借りて戻ってきて、机の前で小さく映像を投影し始めると、それまで唯一の光源だった電球がお役御免とばかりに切れた。
Pがアサヒの蓋が閉まる缶ビールをまじまじ見ているのでどうしたのかと聞くと、この蓋ができるアルミ缶は作るのが本当はすごく難しくて、ヨーロッパでも開発プロジェクトがあったんだけど結局うまく行かなかったんだよ、それを日本は作って普通に売ってるからすごい、と言う。そうだったのか。
Yちゃんがサプライズで現れてポテトチップをくれる。結局僕はこの日荷物を運ぶ前にチョコバーを食べて、その後おにぎりを一つ食べ、お菓子を抓んだだけで、他はスイカだとかアイスクリームしか食べなかった。夜中に片付けが終わって帰る途中Tがラーメンに誘ってくれたけれどやっぱりアイスクリームを食べてしまう。
何時に撤収を始めたか良く覚えてないけれど、みんなでばーっと片付けてみんなで運んでもらったので寮に運ぶ物は簡単に片付いた。寮で解散して、そのあと、僕とTとI君の3人は大学までテントのフレームを運ぶ。今度はTがとても丈夫にキャスターを付けてくれたので昼間に比べて驚くほど軽快にフレームを運ぶことが出来た。
部屋に戻ってシャワーを浴びて、疲れすぎてか眠れないのでペーパーバックを読みながら眠る。
2009年7月25日土曜日。
午前中から二時半まで大雨。昨日動き回ったのにご飯を碌に食べていないのでご飯を炊いて食べる。
昨日使った発電機はMが「任せて発電機ならある」というので任せていたら南区なんて遠いところから借りてきたものだった。言ってくれれば古いけれど僕も一応は発電機を持っているし、借りるにしてももっと近所に借りれるお店があるのに、と思っていると、昨日のパーティーの終わりごろ「実は問題があって、今日夜中の2時半から直島に向かって旅立つから、もしも良ければ明日発電機返してきてくれないか」と言う。よければも何も、僕達2人がこのパーティーの首謀で、それでMが借りて来たわけだから、彼が行けないとなると僕が返しに行くしかない。いつもかなり献身的なMが確信犯的なことをするので吃驚した。もしかしたら僕の英語がまずかったのかと思ったけれど、いくらなんでもそんなの聞き間違えないだろうし、フレンチスタイルなんだろうか。
I君と出町柳で待ち合わせをして、少し遅れて駅へ向かっているとI君から電話が掛かってきて「悪いけれど死にそうにお腹が痛いから帰る」とのこと。
「いいよ、お大事に」と電話を切った物の、片手では持ち上げるのがやっとの発電機と、その他にリールコードを持って一人で階段を上り下りしたり電車に乗ったりするのはかなり大変なことだった。
誰か他に助けを呼ぼうかとも思ったけれど、もうお店の閉店時間まで1時間半くらいしかなくて、今空いてそうで、すぐに出町まで来れるような人でないと駄目で、そんな人は思いつかなかった。僕は目の前のタクシーロータリーで、ここからそのお店までタクシーで行くといくら掛るのか聞いてみることにした。
そのとき、ちょうど目の前に一台のタクシーが止まって家族連れを降ろしたので、運転手さんに値段を聞き、3000円くらいだと言うので乗ることにする。結果的にこの運転手さんが大正解だった。
まず、カーナビ。店はものすごく辺鄙なところにあったのでナビがないと辿り着くのに困難があったと思う。ナビの無いタクシーも多いから良かった。
さらに親切な運転手さんで、帰りに途中まで只で乗せて貰えた。それから話も上手かった。
そのあと天神祭りに急に行くことになって、人ごみの中、ビルの陰から花火を見上げる。