yamanashi.

 Dan Brownの"Deception Point"を読んでいると、"crampon"という単語が出てきて、即座に宮沢賢治の「やまなし」を思い出しました。小学校の教科書に載っていて、賢治の造語「クラムボン」とは何か、という議論を教室で交わした記憶が多くの日本人にはあるのではないかと思います。この英単語はスパイクの底とか金はさみ、みたいな意味らしいのですが、もしかしたら宮沢賢治がここから言葉を引いた可能性もあるのではないかと思って調べてみると、すでにその程度の説は研究者の間で昭和14年などの大昔に出ている様子でした。

 クラムボンのことはなんだって僕は構わないのですが、20年ぶりに読んでみると改めて宮沢賢治のすごさを感じます。

(以下、http://www.yamanasi.net/ より引用)

「やまなし」

小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。

一、五月

 二疋の蟹の子供らが青じろい水の底で話てゐました。
クラムボンはわらつたよ。』
クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
クラムボンは跳てわらつたよ。』
クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
 上の方や横の方は、青くくらく鋼のやうに見えます。そのなめらかな天井を、
つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。
クラムボンはわらつてゐたよ。』
クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
『それならなぜクラムボンはわらっつたの。』
『知らない。』
 つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽつぽつぽつとつゞけて五六粒泡
を吐きました。それはゆれながら水銀のやうに光つて斜めに上の方へのぼつて行
きました。
 つうと銀のいろの腹をひるがへして、一疋の魚が頭の上を過ぎて行きました。
クラムボンは死んだよ。』
クラムボンは殺されたよ。』
クラムボンは死んでしまつたよ………。』
『殺されたよ。』
『それならなぜ殺された。』兄さんの蟹は、その右側の四本の脚の中の二本を、
弟の平べつたい頭にのせながら云ひました。
『わからない。』
 魚がまたツウと戻つて下流の方へ行きました。
クラムボンはわらつたよ。』
『わらつた。』
 にはかにパツと明るくなり、日光の黄金は夢のやうに水の中に降つて来ました。
 波から来る光の網が、底の白い磐の上で美しくゆらゆらのびたりちゞんだりし
ました。泡や小さなごみからはまつすぐな影の棒が、斜めに水の中に並んで立ち
ました。
 魚がこんどはそこら中の黄金の光をまるつきりくちやくちやにしておまけに自
分は鉄いろに変に底びかりして、又上流の方へのぼりました。
『お魚はなぜあゝ行つたり来たりするの。』
 弟の蟹がまぶしさうに眼を動かしながらたづねました。
『何か悪いことをしてるんだよとつてるんだよ。』
『とつてるの。』
『うん。』
 そのお魚がまた上流から戻つて来ました。今度はゆつくり落ちついて、ひれも
尾も動かさずたゞ水にだけ流されながらお口を環のやうに円くしてやつて来まし
た。その影は黒くしづかに底の光の網の上をすべりました。
『お魚は……。』
 その時です。俄に天井に白い泡がたつて、青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲
弾のやうなものが、いきなり飛込んで来ました。
 兄さんの蟹ははつきりとその青いもののさきがコンパスのやうに黒く尖つてゐ
るのも見ました。と思ふうちに、魚の白い腹がぎらつと光つて一ぺんひるがへり、
上の方へのぼつたやうでしたが、それつきりもう青いものも魚のかたちも見え
ず光の黄金の網はゆらゆらゆれ、泡はつぶつぶ流れました。
 二疋はまるで声も出ず居すくまつてしまひました。
 お父さんの蟹が出て来ました。
『どうしたい。ぶるぶるふるえてゐるぢやないか。』
『お父さん、いまおかしなものが来たよ。』
『どんなもんだ。』
『青くてね、光るんだよ。はじがこんなに黒く尖つてるの。それが来たらお魚が
上へのぼつて行つたよ。』
『そいつの眼が赤かつたかい。』
『わからない。』
『ふうん。しかし、そいつは鳥だよ。かはせみと云ふんだ。大丈夫だ、安心しろ。
おれたちはかまはないんだから。』
『お父さん、お魚はどこへ行つたの。』
『魚かい。魚はこわい所へ行つた』
『こわいよ、お父さん。』
『いゝいゝ、大丈夫だ。心配するな。そら、樺の花が流れて来た。ごらん きれ
いだらう。』
 泡と一諸に、白い樺の花びらが天井をたくさんすべつて来ました。
『こわいよ、お父さん。』弟の蟹も云ひました。
 光の網はゆらゆら、のびたりちゞんだり、花びらの影はしづかに砂をすべりま
した。


二、十二月

 蟹の子供らはもうよほど大きくなり、底の景色も夏から秋の間にすつかり変り
ました。
 白い柔らかな丸石もころがつて来小さな錐の形の水晶の粒や、金雲母のかけら
もながれて来てとまりました。
 そのつめたい水の底まで、ラムネの瓶の月光がいつぱいに透とほり天井では波
が青じろい火を、燃したり消したりしてゐるやう、あたりはしんとして、たゞい
かにも遠くからといふやうに、その波の音がひゞいて来るだけです。
 蟹の子供らは、あんまり月が明るく水がきれいなので睡らないで外に出て、し
ばらくだまつて泡をはいて天井の方を見てゐました。
『やつぱり僕の泡大きいね。』
『兄さん、わざと大きく吐いてるんだい。僕だつてわざとならもつと大きく吐け
るよ。』
『吐いてごらん。おや、たつたそれきりだらう。いゝかい、兄さんが吐くから見
ておいで。そら、ね、大きいだらう。』
『大きかないや、おんなじだい。』
『近くだから自分のが大きく見えるんだよ。そんなら一諸に吐いてみやう。いゝ
かい、そら。』
『やつぱり僕の方大きいよ。』
『本統かい。ぢや、も一つはくよ。』
『だめだい、そんなにのびあがつては。』
 またお父さんの蟹が出て来ました。
『もうねろねろ。遅いぞ、あしたイサドへ連れて行かんぞ。』
『お父さん、僕たちの泡どつち大きいの』
『それは兄さんの方だらう』
『さうぢやないよ、僕の方大きいんだよ』弟の蟹は泣きさうになりました。
 そのときトブン。
 黒い円い大きなものが、天井から落ちてずうつとしづんで又上へのぼつて行き
ました。キラキラツと黄金のぶちがひかりました。
『かはせみだ』子供らの蟹は頸すくめて云ひました。
 お父さんの蟹は、遠めがねのやうな両方の眼をあらん限り延ばして、よくよく
見てから云ひました。
『さうぢやない、あれはやまなしだ、流れて行くぞ、ついて行つて見やう、あゝ
いゝ匂ひだな』
 なるほど、そこらの月あかりの水の中は、やまなしのいい匂ひでいつぱいでし
た。
 三疋はぼかぼか流れて行くやまなしのあとを追ひました。
 その横あるきと、底の黒い三つの影法師が、合せて六つ踊るやうにして、山な
しの円い影を追ひました。
 間もなく水はサラサラ鳴り、天井の波はいよいよ青い焔をあげ、やまなしは横
になつて木の枝にひつかかつてとまり、その上には月光の虹がもかもか集まりま
した。
『どうだ、やつぱりやまなしだよ よく熟してゐる、いい匂ひだらう。』
『おいしさうだね、お父さん』
『待て待て、もう二日ばかり待つとね、こいつは下へ沈んで来る、それからひと
りでにおいしいお酒ができるから、さあ、もう帰つて寝やう、おいで』
 親子の蟹は三疋自分等の穴に帰つて行きます。
 波はいよいよ青じろい焔をゆらゆらとあげました、それは又金剛石の粉をはい
てゐるやうでした。

    ◆

 私の幻燈はこれでおしまひであります。