unsounded.

 爆音を鳴らしているスピーカーの前で犬が眠っている。高く何段にも積まれた巨大なスピーカーに比べて、小さな丸くなった犬はそれでも存在感があった。M君が「犬は本当は僕達よりずっといろんなことを分かっているんですよ」と言った。さっきスコールみたいに降った雨のせいで地面はぬかるんでいて、犬の毛にもいくらか泥が付いていた。僕は汚れすぎたスニーカーを洗いに川へ飛び込む。雨上がりの穏やかな太陽が川面に差し込み、背後では昨日の夕方からぶっ通しでDJをしているゴアギルのサイケデリックトランスが鳴っていた。

 もう3年も前の夏のことだ。
 あの頃を振り返ると自分がずいぶん変わったような気がする。同時に何も変わっていないような気もする。クラブの中を窮屈に感じはじめた僕は2000ワットの発電機を買って、スピーカーとアンプとミキサー、ラップトップ、プロジェクターを持って鴨川へ行った。発電機はマキタの中古でものすごい騒音を立てたけれどプラグを交換したおかげでいつでも十分な電力を供給してくれた。それも今は祖父の家の離れにしまいこんだままだ。プロジェクターは片付けを手伝ってくれた友達が酔っ払っていて2回くらい地面に落ちて壊れた。分解すれば簡単に修理ができそうだけど、これもそのまま放ってある。ラップトップは保津峡でパーティーをしたあと湿気の所為で壊れ、ハードディスクから吸い出したデータは名前が文字化けしていてどれがどれがさっぱり分からなくなった。

 話はまた高木正勝のことになるのですが、竹市さんとの対談の最中、高木さんが話しているのを聞いてなんとなくそういうことを思い出しました。僕は音楽について真剣に何かを考えるといった種類の人間ではないけれど、昔、清野栄一さんの本を読んだ頃は音にある力のことが気になっていた。

 竹市さんが「芸術は自由だからうらやましい」と言ったのを受けて、高木さんは「僕の場合はそうでもなくて、色でも音でも結構決まりの中で作っているような気分がします」という感じのことを答えた。どの地域へ行って土着の音楽を聞いても、この辺(耳の高さ)で鳴っている音楽は違うけれど、もっと上の方で鳴っている音は同じだと彼は言った。ある土地で現地の人が現地のチューニングで弾いていたギターを受け取り、普通のチューニングに合わせて弾くと悲しいくらい音が響かなかったらしい。僕達は人類共通のある種類の音をこの世界から引き出したくて、場所に応じて違う音楽を作ったのかもしれない。
 高木正勝という人のモチベーションは「人類が最初に楽器を鳴らしたときにどんな音がしたのかを知りたい」というものだった。これは僕の知る限り音楽家としては珍しい方向性だと思う。人を感動させたいとかきれいな物を作りたいとか、単にそういうことではないようだった。それを聞いて僕はやっぱりこの人の音楽は信用してもいいのだろうなと思いました。