one mississippi.

 それは確かに夜中の3時を過ぎていた。だけど、けしてその為に僕が心動かされたというだけのことでもないと思う。
 2週間くらい前にみんなで中華を食べに行って、あまり良い店ではなかったのでその後別のバーで少しだけ飲んで、そのあとSさんとSちゃんと僕の3人だけでさらに別の店へ入った。僕はもうお酒を飲むような気分でもなかったので、最初からお茶漬けを頼んで、それでSさんが矢鱈と沢山頼んでくれた食べ物を食べながら話をしていた。
 問題は音楽だった。マスターの友人がコンパイルしたというそのCDには80年代から90年代に流行っていたような曲がたくさん入っていて、そのうちの何曲かに僕はやられて聞き入ってしまったのです。

 僕は今までの人生で一環して、流行りの日本のポップスを聴かない、という立場をとり続けてきたので、本来なら懐かしいとかそういった感覚はなくていいはずだった。だから、どうしてそれらの曲が自分の中にこんなに強く入り込んでくるのか理解できなかった。でも、たとえば恥ずかしいけれどプリンセスプリンセスの曲が掛かったときに自分がどうしてそれに強く反応するのか良く分からなかった。当時の、シンセサイザーだけで音は作りました、みたいな音楽が自分の中に想起するものはまぎれもなく過去に繋がるもので、僕は当時それらの曲を好んで聴いていたわけでもないのに異常なくらいの親近感を覚えた。それだけではなく、表現したかったことが手に取るように分かる気分だった。これもあるいは僕が年をとったからなのかもしれないけれど。

 ある時代を生きるというのはそういうことなのだと思う。時代というのは知らないうちに、好むと好まざるに関わらず、僕達の内側へ深く浸透して来る。CDを買ってステレオで聴かなくても、街角やラジオやテレビで耳にした音楽はその時代性と共に僕達に共有される。人というものが現在ではなく過去と未来を強く欲望する生き物なのだとしたら。ある音楽の本当の良さというのは過去に聞かれ未来に再び聞かれない限り立ち上がらないのかもしれない。

 そういった意味で、79年に生まれた僕には多分ビートルズの本当の良さは理解できないだろう。もっと遡ってモーツァルトだって同じことだ。僕達はそれらを鑑賞して感動することができないわけではない。だけど、そこには時代性というものが決定的に欠落している。時代性は当時を生きた人間だけが獲得可能なものだ。まるで神が並べたかのようなモーツァルトの天才的なメロディは、もちろんそれ自体普遍だとしても、やはり当時の人々に響いたものと今のものでは異なっているのだろう。僕としては、何か作品があったとして、その作品を単体で切り出して価値を測るなんてことはできそうにもないのです。僕達は作品に射影された誰かの人生を込みでしか、それらを観ることはできないのではないでしょうか。だから、狭義では芸術というものが人間を越えることは有り得ないと思うのです。