音楽家の家に生まれた猫。

 昨日は夕方からI君に誘われて、O、I、Aも一緒に5人で自由空間SAKANAまでフルートを聞きに行きました。

 そのフルート演奏者の方は、フルートだけではなく、竜笛という日本の雅楽で使う笛も披露してくださったのですが、僕は演奏よりもなによりも指使いが気になってしかたありませんでした。

 通常、楽器は指先を用いて操ります。フルートは指の先の方を使って、管の穴を閉じたり開いたりします。でも、竜笛は指の先ではなくて、もっと付け根に近い部分で演奏するので、見かけ上はまるで笛をぎゅっと握り締めているように見えました。
 僕はその「指先」「付け根」の違いが気になったのです。

 演奏に適した指の配置を考えるならば、「指先」を用いたほうがより動かしやすいように思える。でも、竜笛はより使い難い「付け根」を用いる。わざわざ「付け根」を用いるにはそれなりの理由があるはずだし、それは西洋と日本の身体運用法の違いを表しているような気がした。

 ちょっと話は飛びますが、例えば剣道の動きというのはあまり伝統的な日本武道の動きではありません。もともと日本人はあんな風に足のバネを使って、胸を張って構えたりしませんでした。でも、明治時代に欧米の文化を急速に取り込んで、結果的に現代の剣道ができました。空手も柔道もそうです。実は日本と言うのは恐ろしいくらいの大変化を明治時代に経験していて、別にそれは良いのですが、僕達がそれ以前の日本を想像もできない、というのはちょっと悲しい話だと思います。

 その演奏者の方に、西洋のフルートと日本の竜笛を吹く上で体に感じる違いはどの程度あるのかを尋ねると、それはもう結構違うということで、フルートを吹くときは胸を意識するけれど、竜笛を吹くときは下腹(つまり丹田ですね)を意識するらしいです。
 西洋化した現代剣道が「胸を張って構え」、昔の日本の剣術が「丹田を意識する」だったことになんとなく対応するな、とぼんやり思う。

「竜笛の操作において指先を使わないことには何か理由があるはずですよね。わざわざ使い難い部位で操作するなんて」

「理由ね。あるんですよ、実は。ちょっとオカルトみたいな話ですけれど、付け根に近いほう指の関節から”気”が出るんだそうですよ。残念ながら僕には分かりませんが」

 そうなのか。
 先人たちの教えを継ぐ人々がそういうのならそうなのだろう。そこから”気”が出ているから、そこを使うのだ。僕たちはそれを”気”という言葉でか語れない。でもそれはきちんと機能しているに違いない。我々が未だ自分たちの言葉で解体できないこと、真に新しいことには、そのもの自体に新しい名前を与えて、その名を使う他ない。

 僕がいつの間にか放ったままにした「人工知能」と「量子力学」の話。一番言いたかったことは、絶対に自分たちの言葉で解体できないものを、絶対に人間の理解能力、認識能力では感知できないものを、僕たちはどのように扱えば良いのかということです。
 それらはこの世界に存在しています。残念ながら僕たちはこの世界の全てを理解できるようには設計されていない。その可能性がとても大きい。でも僕たちは世界を知りたいと思う。言葉では表現しきれないものを言葉で表すとき。たとえば、絶対にこんな一言では表せない「神」という言葉を僕達が使うとき、このとりあえず使った「神」という言葉は一体何を表しているのでしょうか。この言葉を使うとき、僕達の頭の中では何が起こっているのでしょうか。僕たちは「神」という言葉が神を表さないことを知りながら、「神」という言葉無しに神を思考することはできません。逆に、神を表さない「神」という言葉を用いて、僕達は神を思考できる可能性を持っています。このぐるぐるした混乱状態に、僕達が絶対に理解することのできないことを理解する可能性も存在するのではないかと思います。