サイケデリック。

 ラジオを点けると、雑誌「関西1週間」がフューチャーされていた。このへんてこな名前の雑誌が創刊されたとき、僕はなかなか名前に馴染めないのと、それから発売日が隔週ならば「関西1週間」ではなくて「関西2週間」じゃないか、と半ば腹を立てて、でも自分の人生にはほとんど関係がない雑誌なのですぐに忘れてしまった。

「小説とは、人生のお手本を示した物である」

 という風に小説の定義を行った場合、

「現代最強の小説は雑誌である」

 と、いつだか高橋源一郎さんは論理を進めていらっしゃいました。
 雑誌って小説なんです。どこで何を買って、何を食べて、何を着てどこへ遊びに行けとか、ひいてはどのように考えろだとか。そういった提案に脚色を施した物。

 ときどき、僕は歌を作ろうとするのですが、歌詞というものをどうにも上手に書くことができません。音楽と言葉の関係というのはとても悩ましいものです。ましてやそれを自分が口にするのなら。
 以前、音楽を作っているAちゃんが「歌詞はどうにも重いから入れることができない」と言っていたのを時々思い出す。

「いっそのことボーカルはラララとかだけでいいと思うの。意味は要らない」

「そうだけど、でも僕は少しだけ意味も欲しいんだ。だから、英語で歌詞を書こうと思う。日本語よりもちょっと間接的になるし」

「でも英語の分かる人が聞けばダイレクトに意味を持つことに変わりないじゃない」

「じゃあ、スペイン語で」

「それもスペイン語の分かる人にとっちゃ一緒でしょ」

「じゃあ、新しい僕だけの言語を作るよ。そうして、歌詞カードに日本語訳を載せておくのさ。聞く分には誰にも意味が分からなくて、歌詞カードを読んではじめて意味が分かる。誰にとっても間接的な意味の分かり方と、架空のネイティブが想定された言語」

「つまり、出鱈目ということね」

「いいや、きちんと単語と文法を作るさ。そのうち、歌詞を書くときの標準語にでもなれるくらいに精密なやつをね」

「ふーん」

 そうして僕は少しく新しい言語について考える。「私」は何にしようかな、なんて。そしてその作業は恐ろしく大変なものだとすぐに気が付いた。新しい言語体系を作ると言うのは、新しい思考体系を作ると言うことだ。そんなのすぐにできっこない。

 昨日、NHK立花隆がサイボーグの特番をやっていて、その過程で彼は実際に自分の神経に電極を取り付けてロボットアームにコネクトする実験に参加していた。ロボットアームのセンサーが「触れている」を拾うと、立花さんの腕に「触れている」感覚が発生するというものだ。
 そのときの感覚を彼は「言葉に表すことができなかった」と正直に告白した。彼は随分と語彙の豊富なジャーナリストだけど、言葉に表すことができない、と言ったのだ。真に新しいことが起こったとき、その現象は我々の世界が有する言葉からは独立で、それゆえに僕たちはそれを表現する言葉を持たない。

 少し話しは逸れるのですが、このサイボーグ番組にはアメリカのロボットマウスだかなんだかというものが紹介されていました。
 なんとも痛ましいことに、そのネズミの頭には電極とコントローラーが埋め込まれていて、彼はパソコンからの命令通りに右や左へ曲がるのです。背中にはカメラを搭載している。
 吐き気がした。
 ヒヒだかチンパンジーだかでも実験は成功しているらしい。その映像が流れていれば僕は確実に吐いただろう。

 先日Mさんとご飯を食べているときに「それは何味か?」という話をした。
 僕はそのとき鳥の肝を食べていて、彼女は「生のそんなもの食べれるわけがない」と言って食べることを拒絶して、そして「何味?」と聞いた。僕は「鳥の肝味」と答えた。

「それじゃ、分からないわよ」

「言葉で味なんてわかりっこないさ」

 もちろん、これは只の意地悪だ。僕はなんとか塩の味がして血の味もして、という風にだいたいのところを伝えることはできる。でも、あくまでそれは無理やりの話であって、現実にはある味とある言葉は一対一にしか対応できないのではないかというような気分もする。

 唯言論のことを高校とき、国語の先生が話し出して、そのとき彼は「ある民族では、黒い馬を示す言葉、茶色い馬を示す言葉、はあるけれど、でも、馬を表す言葉はない。だからこの民族とっては馬は存在しない。いるのは黒い馬か茶色い馬だけだ」と言った。
 これは若干怪しい話だけど、この民族が本当に「馬」という種を認識しないのだとすれば、そのなかで「馬」という言葉を発明するのは天才的な行為かもしれない。