クロック・クロック・クロック。

 前回の続きを書く前に、普通の日記を書いておきます。
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 3月26日(日)
 東京からAがやってきて、御飯を食べたりした。彼女はそのあとAちゃんに会う約束をしていて、AもAちゃんもとても懐かしい、ある意味では僕がもっともクラブに親しんでいた頃の友達で、寝不足の不健康な生活のことを思い出す。

 3月31日(金)
 アルバイトから帰って、修理が済んで外に置いたままの発電機をI君とアパートの廊下にいれて、その後、服を着替えて一乗寺のワヤというお店で、M君、Kさん、Y、Cちゃん、Mさん、S君、I君と少しだけ食べたり飲んだりして、1時30分頃から僕はみんなと別れて、Oと約束していたのでメトロへ行った。この夜は沖縄のイベントで、マイルドな感じだった。

 4月2日(日)
 T君のお見舞いにHと行く。
 T君は、食べれないし、音楽も聴きたくないし、本も読みたくない、という状態だ。ただ面白い話が聞きたいらしい、ということだったので、ここのところ気にしていてそのくせ手を出さなかった落語のCDを何枚か借りてきて、ipodに吹き込んで持って行った。それからサクラの枝と。
 この日初めてT君のお母さんにあったけれど、とても感じの良い話の上手な人だった。T君もそうなので、なんとなく納得が行く。T君は大分と回復していて、良くしゃべってくれたので、しゃべりすぎではないかとハラハラしたけれど表情を見て一安心した。

 4月3日(月)
 アルバイト最後の日。
 流石にすこし感慨深い。
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 テレビを見ていると、どこかの引っ越し会社のコマーシャルが流れた。
 曰く、研修で鍛えた技術力だとかなんとか。

「研修で鍛えた」

 なんて貧弱な主張だろうか。つまり実務経験はないっていうことですよね。

「君、この仕事自信あるかね?」

「はい、研修で鍛えましたから」

 僕ならこんな人に仕事を任せることはできない。研修は飽くまで研修に過ぎない。それは想定された事態に対応する訓練であり、想定されなかった出来事が起こったときにどうするのか、という訓練ではない。想定されなかった場合にどうするのか、というのは実地において暫くの経験を積むことではじめて獲得される。僕たちがプロフェッショナルに仕事を依頼するのは、彼の持っている「想定されなかった場合に対応する能力」を買ってのことだ。
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 前回は医者の話をしている途中で終わりました。
 「超越された者」が如何にして「超越している者」を査定するのか、その不可能はどのようにして可能となるのか、というような話です。その一例として、僕は「評判を聞く」ということを挙げました。

 評判を聞くというのは、その医者のアウトプットを眺めるということです。
 僕たちは「超越されている者」なので、医者の「作業」を理解することはできません。しかし、その結果に関して判断することは可能です。治れば「良し」であり、治らないのならば「悪し」だというだけのことです。医者の「作業」自体は理解できないブラックボックスであり、しかし、それは言いかえれば「理解する必要の無い」ブラックボックスです。医学を志す人間以外には、そのブラックボックスの中味は無用であり、それが黒魔術であろうと西洋医学であろうと気功であろうと、なんだって「治るのならそれで構わない」わけです。

 これって何かに似ていますよね。

「中味は分からない。仕組みは分からない。けれど、べつに動くならそれで良い」

 電化製品やなんかに似ていませんか。僕たちは、理解できない物を使いこなす、ということを日常で普通に行っている訳です。つまり、「超越者」というのは「超越された物」によって簡単に使いこなせるポジションにあり、また、そうでなければ超越者としては認識されないということです。本当の「超越者」というのは、僕たちには見ることも思うこともできない場所にある存在であり、それは思考不可能である故に「超越者」と言葉を用いて表現することはできません。どのような方法でも表現は不可能であり、そういったものを語ろうとする場合、僕たちは黙り込むしかできないのです。無理矢理、あえて外れを承知で書けば

『     』

 ということですよね。

 前回、入力−ブラックボックス−出力 の例に「意識があるのかないのか分からないコンピュータ」という言葉を出しましたが、厳密にいうとこれは人工知能のことです。入力−ブラックボックス−出力、というのは人工知能のチェックにおいてはチューリングテストと呼ばれるものに相当します。
 人工知能の研究者は大きく2種類に分類することができます。それは「強い人工知能論者」と「弱い人工知能論者」の2つで、「強い」というのは「人工知能は意識を持ち得る」という主張のこと、「弱い」というのは「人工知能は意識を持ち得ない」という主張のことです。僕は「強い人工知能」という考え方を支持します。コンピュータは意識を持ち得るのだと。

 ドラえもんを見ていて、僕は時々恐くなることがありました。

「もしも、ドラえもんというロボットが意識を持っていないのだとすると、のび太は本当は部屋で一人ぼっちで話をしているに過ぎないのだ」

 と思うと、恐くて恐くてどうにも仕方なかったのです。ちょうど、一人で留守番をしているのがなんとなく恐いのでテレビを点けて見ている子供のようなものです。本当は一人なのに機械を使って気分を誤魔化しているだけです。

 というところで次回に持ち越したいと思います。
 すっきりしなくて申し訳ありません。
 でも、実は今までだっていつも結論がついて、オチがついて終わっていた訳はなくて、本当は終りが無いものを無理矢理切って終りのように見せかけていただけなのです。しばらく、この冗長なスタイルを続けてみたいと思っています。